やさしい現代語訳

源氏物語−「桐壺(きりつぼ)第1帖

(光源氏の誕生から12歳 藤壷17歳 葵上16歳の頃の物語)

登場人物の 系図     源氏物語の本で読む



 いつの御代のことでしょうか。宮中には女御(にょうご)や更衣(こうい)が大勢お仕えしておりました。その中に、特に身分の高い方ではありませんが、格別に桐壺帝のご寵愛を受けていらっしゃる姫(更衣)がおりました。始めから、自分こそは帝のお后にと思い上がっていた女御たちは、この更衣を目ざわりに思い、大層蔑んで妬んでおりました。朝夕の宮仕えの折にも、心穏やかではいられない女御たちの妬みや恨みを一身に受け続けなさいまして、この更衣はやがてご病気がちになられ、心細そうなご様子で里にお帰りになりますので、桐壺帝はますますいとおしくなられまして、人のそしりにも耳をかさずに、世間の噂になるほど可愛がっておられました。
 上達部(かんだちめ・大臣や大納言等)なども目を背けてはおりましたが、世間では「唐の玄宗皇帝・楊貴妃のように国が滅びる。」等と不愉快な噂をするようになりました。更衣にとっては、大層耐え難いことですけれど、帝のかたじけない愛情が比類ないことを信じて、宮中で他の女御たちに混じって、お過ごしになっておられました。
 更衣の父・大納言は亡くなり、母・北の方は昔風で由緒ある家柄の人でしたので、両親揃った華やかな評判の方々に比べても大して劣らないようにと、何事の儀式にも立派にお支度を整えなさいました。けれど格別しっかりした後見(経済的援助等)もなく、頼るところもないので、やはり大層心細そうな様子でございました。

(光源氏の誕生) 
 前世でも帝と更衣は御縁が深かったのでしょう。やがて、この世にないほど輝くばかり美しい珠のような男御子がお生まれになりました。帝はこの皇子に早く逢いたいとお思いになって、急いで内裏に参上させなさいますと、世にも珍しいまでに愛らしいご容貌の御子でございました。
 第一皇子は、弘徽殿(こきでん)の女御がすでにお生みになった御子で、後見も大層厚く、疑いもなく皇太子になられる方として世にも大切にご養育しておりますが、この更衣の御子の美しさは並ぶ者もないほどですので、桐壺帝は、第一皇子はそれなりに大切に、そしてこの御子は個人的に格別な宝として、この上なく大切にお育てなさいました。
 更衣は、上宮仕え(お側勤め)をなさるような軽い身分の方ではありませんでした。人の信望も重く、高貴なご様子ですのに、帝がむやみにお側に仕えさせてお離しになりません。管弦のお遊びの折や、由緒ある催しには、まずこの更衣をお召しになりました。ある時には、お寝坊をなさり、御前を去らせることなく、そのままお仕えさせなさいましたので、まるでご自分が軽い身分の側仕えとして扱われているように思えることもありましたが、この御子がお生まれになりましてからは、桐壺帝は大層格別に心遣いをなさいますので、第一皇子の母・弘徽殿の女御は、いつの日かこの御子が皇太子になるかもしれないと、お疑いになっておられました。この女御はほかのお后よりも先に宮中においでになりましたので、帝は大層高貴な方という思いが強い上、他にも御子さま方もおありになりますので、この女御のご意見こそ煩わしく心苦しくお思いでございました。
 更衣ご自身は、弱々しく何となく頼りないご様子でいらっしゃいました。畏れ多い帝の恩恵を頼りになさいますものの、他の女御たちの中には、人を見下げたり、欠点探しをする方々が多くいらっしゃいますので、帝のご厚情ゆえの気苦労をなさっておられました。

 更衣の御局(部屋)は淑景舎(しげいしゃ・桐壺)で後宮の東北の一番端にございました。多くのお后の前を通り過ぎて、隙もないほど頻繁に帝の御前にお渡りになりますので、お后がたが大層気をもんで苛立っていらっしゃるのも誠に当然のことでございました。あまりにも度重なってお渡りの折には、打橋・渡殿(渡り廊下)の通り道に良くない悪戯をして、送り迎えの侍女の着物の裾が耐え難く汚れてしまうこともありました。またある時には、馬道(中廊下)の戸を閉ざして更衣を閉じ込め、あちらとこちらで示し合わせて悪戯をすることも多くありました。ことにふれ、苦しいことばかり増えますので、更衣は大層思い悩んでいらっしゃいました。帝はその様子をますます可哀想にご覧になって、帝の御前にずっと近い後涼殿(こうりょうでん)を桐壺の更衣の上局(部屋)として賜りました。もともとそこに住んでいた女官たちの恨みを、やはり受けることになるのでした。

 この御子が三才になられまして、第一皇子の時に劣らぬように、御袴着の儀式が内蔵寮(くらづかさ)や納殿 (おさめどの)の宝物を使い果たすほどに、大層盛大に催されました。それにつけても、世間の非難ばかり多いのですが、この御子が成長なさるにつれ、ご容貌やご性格がますます素晴らしく美しくなられますので、誰もこの御子を嫉みとおすことはできません。物事を心得た人はこのような素晴らしい人がこの世に現れるものかと、ただ呆れるほどに目を見張っておりました。
 

 その年の夏、桐壺の更衣は頼りない心地でご病気になられ、実家に退出しようとなさいましたが、帝はお暇をお許しになりません。この数年来、いつもご病気がちでしたので、帝はそれに慣れてしまわれ、「やはり、もう暫くここで様子を見るようになさい。」とだけ仰せになりました。しかし日々病が重くなり、僅か五・六日の間にすっかり衰弱なさいました。更衣の母君が泣く泣く帝に申し上げて、ようやく加持祈祷のため実家に退出なさることになりました。
 帝もそういつまでも引き留めることもできず、お立場上お見送りさえなされないのを、言いようもなく悲しくお思いになりました。大層美しく可愛らしかった更衣が、ひどく面やつれしてしまわれたのをご覧になりまして、胸がつまるように悲しいことと思い沈んでおられました。言葉に出すこともできず、意識もないような様子をご覧になりまして、帝は大層取り乱しなさいまして、いろいろ約束を泣く泣くなさいましたが、更衣はお返事さえ申し上げることもできずに、目もだるそうで、ぐったりして正体もない様子で臥していらっしゃいますので、帝はただ途方にくれていらっしゃいました。
 輦車(車の付いた御輿)で退出なされるよう宣旨(許可)を出されましたのに、まだご出立のお許しもなさいません。帝は「死出の旅路に遅れたり、先立ったりすまいとお約束なさったのに、まさか私を独り残して行くことはないでしょうね。」とお泣きになりました。更衣は、帝のご様子を誠に痛ましいとお思いになって、

   限りとて 別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり

     (訳)もう命の限りとお別れする旅路が悲しうございます。いつまでも生きていたいこの命なのですが・・・

息も絶え絶えに、申し上げたいことはあるようですが大層苦しそうで、帝はこのまま宮中にて見届けたいとお思いになりました。母君が「今日始めるはずの加持祈祷のために、しかるべき僧たちが待っておられます。今宵より始めますので・・・。」と急がせ申しましたので、帝は仕方がないとお思いになって、更衣を退出させなさいました。胸がふさがったように苦しく、少しもお眠りになれず、一夜を明かしかねていらっしゃいました。お見舞いのためお遣わしになりました遣者が、まだ往復する間もない頃ですのに、もう限りなくご心配なご様子で心乱れておられました。

(桐壺の更衣の死去)
 「夜中を過ぎる頃、とうとうお亡くなりになりました。」と里方では泣き騒いでおりました。お遣いの人も大層がっかりして、宮中に戻りました。それをお聞きになりました桐壺帝は大層お嘆きになり、御心乱れて、何も分別がつかない様子でお部屋に閉じこもってしまわれました。御子は母君が亡くなられても、ここ宮中でご養育申し上げたいと強くお思いになりましたが、喪中に宮中においでになるのは前例のないことですので、里方に退出させることになさいました。御子は何事が起きたのか分からないご様子で、お仕えする女房たちが泣き惑う姿や、父帝が涙を留めなく流していらっしゃるのを不思議な事と思っていらっしゃいました。普通このような母君との死別が悲しくないはずはないのに、まだ何分にも幼く、何もお分かりにならないご様子がなおさら可哀想で、言いようもないほど悲しいことでございました。
 宮中の作法どおり御火葬になさいますので、更衣の母君は「娘と同じ煙になって、空に昇ってしまいたい。」と泣いておっしゃいました。御葬送の女房たちの車に一緒にお乗りになりまして、厳粛な葬送の儀式を執り行う愛宕(鳥野辺の火葬場)にお着きになりました御気持はどんなに悲しいものでございましょう。
 母君は「むなしい御遺骸を見ても、なお生きているように思えます。全くどうにも堪えられそうにありませんので、いっそ灰になってしまわれるのをこの目で見届けて、今は亡き人と諦めてしまおうと思います。」と分別ありげにおっしゃいました。けれども深い悲しみから御車から落ちそうにお倒れになりましたので、女房たちは大層心配をいたしました。
 そこへ宮中より御遣いがありました。三位(さんみ)の位を賜る旨の宣命を勅使が読みますのは、今となっては誠に悲しいことでございました。桐壺帝は、女御とさえ呼ばずに更衣のまま終わってしまったことを、誠に残念にお思いになりましたので、せめてもう一階級上の位を差し上げようとお考えになり、お贈りになったのでございます。この件につけても、亡き更衣をお恨みになる女御たちが多くございました。物の情理の分かる人は、亡き桐壺の更衣のご様子やご容貌などが特に優れておられたこと、ご性格が穏やかで憎みきれなかったことなどを、今になって親わしく思い出しておりました。帝の目に余るご寵愛ゆえに、女御たちが妬みなどなさいましたが、優しくて情愛深いお人柄だったと、帝つきの女房たちも恋しく思い出しておりました。「亡くなって初めて、その人が恋しく思われる。」とは、このことを言うのでしょうか。

 はかなく月日が過ぎてゆきました。桐壺帝は七日ごとの法要なども細やかに気遣いなさり、心を込めてお弔いなさいました。時の経つにつれ、帝はどうしようもなく悲しくお思いになり、お后がたの夜の宿直なども絶えてなさらずに、ただ涙にくれてお暮らしでございましたので、お側でお仕えする人達までもが、涙に濡れる秋でございました。それでも「あの更衣は、亡くなった後まで、皆の気持ちを暗くする人です。異常なまでの更衣へのご寵愛ですこと。」と、弘徽殿の女御は、決してお許しにならないようでした。 

(帝は更衣の里にお見舞いをお遣わしになり……) 
帝は第一皇子をご覧になるにつけても、若宮(更衣の御子)の恋しさばかりが思い出されて、親しい女房や乳母(めのと)などを亡き更衣の里にお遣わしになって、若宮のご様子などをお尋ねになりました。
 吹く風は野分めいて、急に肌寒く感じる夕暮れに、帝はいつもより強く更衣を思い出しなさいまして、靫負命婦(ゆげいのみょうぶ)を里にお遣わしになりました。夕方の月が趣深いころに、命婦を出かけさせなさいますと、帝はぼんやり月を眺めていらっしゃいました。以前はこのような折に、管弦の遊びなどをなさいまして、更衣は格別趣のある琴を掻き鳴らし、さりげなくお耳にいれる和歌も特に優れていました。愛しい更衣のご様子が面影となって、帝に付き添っているように思えますものの、暗闇の中にみるお姿は、生きていたころの愛しいお姿には、やはり劣って見えました。

  靫負命婦 は更衣の里にお着きになり、門の中に御車を引き入れますと、辺りの気配が大層あはれに感じられました。母君は未亡人でありますけれど、娘の更衣一人を大切にお育てになり、宮中で惨めにならないよう取り繕いなさいましたので、ご自分はなんとか見苦しくない程度にお暮らしでございました。その更衣が亡くなり、悲しみに臥し沈んでいらっしゃる間に、草も高く生い茂り、野分の風に大層荒れ果てた心地がして、訪れる人もなく、生い茂った雑草に妨げられず月の光だけが、差し込んでおりました。命婦が正殿のほうに参りますと、母君は胸がつまって急に何もおっしゃることができません。「今まで生き長らえてまいりましたが、誠に辛い日々でございました。このようにお遣いの方が生い茂った草の露を踏み分けてお出で下さいましても、ただ恥じいるばかりでございます。」と本当に耐え難い様子でお泣きになりました。
 「ここを訪れましても大層心苦しく、身も心も尽きるようでございます。物の情理の分からない私にも、本当に堪えられないほど悲しうございました。」と、命婦は少し気持ちを落ち着けて、さらに帝の御言葉をお伝えいたしました。「帝は(しばらくは夢ではないかと思い迷っておりましたが、だんだん気持ちが鎮まってくると、夢ではないから覚めようもなく、この悲しみをどうしたらよいのでしょう。相談すべき人もありませんので、今、貴女が忍んで参内して下さいませんか。さらに若宮が、大層気がかりで可哀想ですので、若宮を早く参内させて下さい。)などと仰せになりますご様子がなによりお気の毒で・・・。」と言いながら、帝のお手紙をお手渡しいたしました。母君は、「涙の目でお手紙も見えませんが、このようにかたじけない帝のお言葉を光として、拝見させていただきましょう。」とご覧になりました。帝のお手紙には、(日が経てば、少し気が紛れることもあるだろうかと、その日を待ちながら過ごしましたけれど、悲しみが耐え難いのはどうしようもないのです。幼い若宮がどうしているかと思いやりながら、貴女とご一緒にご養育するのでないと心細いですから、亡き更衣の形見として若宮と一緒に参内なさってください。)など、細やかに書かれておりました。

   宮城野の露吹きむすぶ風の音 小萩がもとを思いこそやれ

     (訳)宮城野の露を吹き付けて結ぶ風の音を聞くと、か弱い若宮のことが思いやられます。

とありますけれど、母君の涙の目ではとてもご覧になれませんでした。

 母君は「命長らえたことが大層辛く思われます。私がまだ生きていると思うことさえ恥ずかしいことので、宮中に参りますのはご遠慮したく存じます。帝の仰せのとおりに参内するなど、とても思い決めることなどできません。若宮はどのように分かっていらっしゃるのか・・・。若宮が参内なさることを特に急いでおられるようですので、私ので考えております事を、帝に申し上げてください。私は夫を亡くし、今娘をも亡くした不吉な身ですので、若宮がここにいらっしゃいますのも、かたじけないことでございます。」とおっしゃいました。側で若宮はお寝みになってしまわれました。命婦は「若宮のご様子を詳しく帝のお伝え申し上げたいと思いましたが、お寝みになってしまられたようで・・・。帝がお待ちでございますので、そろそろ宮中へ戻りましょう。夜が更けてしまいます。」と申し上げました。
 母君は「娘を失った心の闇に惑う親心は、堪えられないほど悲しいものでございます。せめて次には、お遣いとしてでなく、私ごととしてお出かけくださいませ。この数年来、嬉しいお祝日に、お立ち寄りくださいましたのに、このような悲しい日のお遣いとしてお逢いしますとは、返す返す何と無情な運命でございましょう。更衣は生まれた時から、宮仕えに出したいと思っていた娘で故大納言が臨終の間際まで(この子の宮仕えの意を必ず遂げさせてください。私が亡くなったからといって、残念な結果になってはなりません。)と遺言なさいました。しっかりした後見人もない宮仕えはきっと辛いに違いないと思いましたが、ただあの遺言を違えるまいとばかり思って、宮中に出しましたところ、帝から身に余るほどのご寵愛をいただき、万事にありがたいことでございます。更衣は人並みに扱われない恥ずかしさを押し隠しながら、宮仕えをしていたようですが、人の嫉妬が深く積もって、心穏やかでいられないことが多くなってまいりまして、あのように不自然な様子で遂に亡くなりました事を思いますと、帝のご寵愛をありがたく思いますものの、かえって辛く恨めしく思われます。これも子を思う親の迷いでございましょう。」と、言い終えずに、涙にむせんでおられますうちに、夜も更けてしましました。
 命婦は「帝もそのとおりにお思いでございます。(人目を見張らせるほどに更衣を愛しく想いましたのも、長く続くはずのない前世のご縁だったのでしょう。今は更衣との契りがただ恨めしく思い出されます。今まで、いささかも人の心をそこねたことはあるまいと思うのですが、ただこの人を愛したことがもとで、沢山の人々から受けるはずのない恨みを負い、その果てに、このように一人とり残され、悲しみの心を鎮める方法もないので、一層頑固になってしまいましたのも、すべて前世の縁なのでしょう。)と繰り返し仰せになりまして、帝は涙を流しておられます。」と話が尽きません。
 月が山にはいる頃で、空が澄み渡り、風が大層涼しく吹いて、草むらの虫の声も悲しげに聞こえます。命婦には誠に立ち去り難い草深い家でございました。命婦は泣きながら、「夜も更けてまいりました。今夜のうちに帝にお返事を申し上げましょう。

   鈴虫の声の限りを尽くしても 長き夜あかず涙かな
     (訳)あの鈴虫のように声の限り尽くして泣いても、秋の夜長に飽かず涙がこぼれます。

母君は命婦の様子をご覧になりまして、

   いとどしく 虫の音しげき浅茅生に 露おきそふる雲の上人
     (訳)虫の音が騒がしい草深い家に、涙の露を置き添える宮中の方よ

 趣深い贈り物などあるはずの折でもないので、ただあの更衣の御形見として、こんな時役立つこともあろうかと残しておかれました御装束一領(お着物一揃)と御髪結の道具をお添えになりました。 若い女房たちは華やかな宮中に朝夕慣れていますので、喪中の御邸は大層寂しく、帝の悲しいご様子などを思い出しては、若宮が早く参内なさることを母君にお勧めしました。けれど母君は、娘を亡くしたこの不吉な身が若宮に付き添うことは、人目に良くないとお思いになりましたが、また若宮だけで参内なされば、しばらく若宮にお逢いできなくなることも大層寂しくお思いになりまして、思い切って若宮を参内させることもおできになりません。

 命婦は、桐壺帝がまだお寝みにならないで、命婦の帰りを待っておられましたことをしみじみお労しく思いました。帝は、御前の壺前栽(中庭の植え込み)が大層美しく盛りに咲いているのをご覧になりながら、ひっそりと奥ゆかしい女房たちを四・五人お側にお置きになり、物語などさせていらっしゃいました。このごろ、明けても暮れても長恨歌(ちょうごんか)の愛妻に死別したという和歌を口癖のように詠っておられました。
 更衣の里方の様子を帝は細々とお尋ねになりました。命婦はしみじみと感じられたことを忍びやかにご報告申し上げました。母君からのお返事をご覧になりますと、「誠に畏れ多く、身の置き所もございません。このような仰せ言をいただき心も乱れております。

   荒き風 ふせぎし陰の枯れしより 小萩がうへぞしづ心なき
      (訳)荒れた風を防いでいた木が枯れたように、若宮を守っていた更衣が亡くなって、若宮のことが案じられます。

歌に乱れがあるのをお気付きになって、帝は心が落ち着かなかったからだろうとお許しになりました。そして、ご自分の気弱い姿を人に見られまいとお心を鎮めておられました。これ以上堪えることができないとお思いになって、更衣と初めてお逢いになって以来の年月のことをかき集めて、いろいろ思い出しておられました。当時は少しでも更衣と離れていると心細かったのに、今は月日がこうも早く経ってしまったと、呆れたようにお感じになりました。帝は「亡き大納言の遺言に背かずに、宮仕えの意志を持ち続けてくれた事を大層喜び、それに報いたいと思っていたのですが、今はもう仕方のないことよ。」と心からあはれにお思いになりました。「いづれ、若宮が成人なさった折には、母君にそれ相当のお礼をする良い機会もありましょう。命長く・・・と願うこそ良いのです。」と仰せになりました。

 風の音や虫の鳴く音を聞くにつけても、もの悲しくなりますのに、弘徽殿の女御は、長い間上の御局(部屋)にもお参りにならず、月の美しい夜には夜の更けるまで、管弦の遊びなどをなさいますので、帝は全く不愉快で厭なこととお聞きになりました。この頃の帝の悲しみを知る殿上人や女房たちは、側にいて心苦しくこれを聞いておりました。弘徽殿の女御は、誠に我が強く、角々しいきつい性格の方で、帝の悲しみ等も無視なさいまして、このように振る舞っていらっしゃいました。

 月も山の端に入りました。

  雲の上も涙にくるる秋の月 いかで澄むらむ浅茅生の宿
      (訳)宮中でも涙で暗くなる秋の月が、どうして草深い宿で澄んでいるのでしょう。

帝は更衣の里を思いやりなさいまして、いつまでも灯火を灯して起きていらっしゃいました。遠くで宿直奏の声が聞こえましたから、もう丑の刻(午前二時頃)になってしまったのでしょう。人目を気になさって、夜の御殿(ご寝所)にお入りになりましたが、まだ少しもお寝みになる様子はありません。翌朝お起きになるにつけても、更衣のおりました頃には、夜が明けることも知らずに眠っていたことなどを思い出されました。今朝もやはり早朝の政務(まつりごと)は怠ってしまうようでございました。お食事も召し上がらず朝餉(あさがれい)の略式の御膳に少しだけお箸をおつけになるだけで、大床子(だいしょうじ・天皇の正式の食事)の御膳などは、全くおとりになりませんので、お給仕の人たちは胸が詰まるような思いで嘆いておりました。お側近くでお仕えする人々は、皆は本当に困り果てておりました。
 以前は、大勢の人のそしりや恨みを全くおかまいにならず、この更衣のこととなると、ものの道理を全く失ってしまわれました。その上、更衣の亡くなった今は、世の中を治める天下の政治などもすっかり見捨ててしまわれたようなご様子なので、大変不都合な事と、皆で嘆いておりました。

(若宮の参内)
 月日が経って、若宮が参内なさいました。この世のものと思えないほど、輝くばかり美しくなられましたので、帝は不吉なことでも起こらねば良いがと不安にお思いになるほどでございました。
翌年の春、皇太子を決める時にも、帝は第一皇子を越して、この若宮を皇太子にとお思いになりましたけれど、ご後見をする人もなく、世間が認めそうもないので、無理をすればかえって若宮には危険なことになると遠慮なさいまして、気配さえお出しにならずに気持を抑えていらっしゃいましたので、世間の人々も「あれほど強く思っておられましても、ものには限度がある。」と申し上げておりました。これで弘徽殿の女御もご安心のようでございました。

 あの若宮の祖母君は心慰められることもなく悲しみに沈んで、亡き更衣の逝った所へ尋ね行きたいとお願いなさったせいでしょうか、ついにお亡くなりになりましたので、帝はまた、これをこの上なく悲しいとお思いになりました。若宮は六歳になられましたので、今度はよくお分かりになって、恋しがってお泣きになりました。祖母君も、長い間若宮に馴れ親しんでおられましたので、この世に一人残すことを大層悲しいと繰り返しおっしゃいました。

 若宮は今は宮中にばかりいらっしゃいました。七歳になられましたので、読書初めなどおさせになりましたが、若宮が大層聡明で賢くいらっしゃいますので、帝は、そら恐ろしいとまでお思いになりました。

「今は誰も若宮を憎むことはできないだろう。まして、母のない御子なので、可愛がってやって欲しい。」と仰せになって、弘徽殿の女御のところにも、ご一緒に若宮をお連れになって、そのまま御簾の中にお入れ申しました。
たとえ、恐ろしげな武士や憎い相手であっても、若宮をひと目見て微笑まずにいられないほど愛らしいご様子なので、さすがに弘徽殿の女御も、そっけなく遠ざけることもできません。この女御には御子としてお二人の姫君がおいでになりますが、この若宮の愛らしさにはとても比べることなどできません。ほかの后たちも、若宮が幼い今から、優雅で気高くいらっしゃるので、誠に可愛らしいけれど、気詰まりなお遊び相手と、誰もが思っておりました。正式の学問は言うまでもなく、琴笛を奏じて宮中の人々を感銘させるなどして、優れた点を数え上げてもキリの無いほど素晴らしいご様子でした。

(高麗の人相見の予言)
 その頃、高麗人(こまうど・朝鮮人)で賢き人相見(にんそうみ)がいると帝はお聞きになり、この若宮を右大弁(うだいべん)の子のように見せかけてひどく内密にして、鴻廬館(こうろかん)にお遣わしになりました。若宮をお連れしますと、人相見は大層驚いて、何度も首をかしげて不思議がりました。そして、「この御子は国の帝王という最高の地位に登るはずの人相のある方ですが、そうなると、国が乱れ憂うことになるかもしれません。しかし、朝廷の固めとなって、天下を補佐する方とは見えません。」と申しました。右大弁も大層才気ある賢き博士ですので、この人相見が今日明日にも帰るという日に、お互いに漢詩などを作り交わしなさいました。このように尊い人に逢えた喜びが、帰ってしまった後悲しみに変わるという御気持を面白く漢詩に詠ったのに対し、若宮も大層しみじみするような句をお作りになりましたので、人相見は限りなくお誉め申し上げ、素晴らしい贈り物を差し上げました。朝廷からも多くの御品を人相見に賜りました。帝が漏らされることは決してありませんのに、自然にそれが広く知れ渡って、皇太子の祖父大臣などは大層お腹立ちのようでございました。

 帝は(この若宮がもし親王となられたら、いづれ皇太子になるかもしれないという世間の疑惑を必ず負うに違いない。それは若宮には大変危険な事ですので、源氏という臣下(ただ人)の姓にして、一番低い位で外戚の後見も全くない心細い身分のままにしておこう。)と、わざわざ親王にもなさらなかったのでした。(さすが、朝鮮の人相見は賢いことだ。強いて心細い身分のままで生涯を送らせることのないように・・・、わが在位も不安定だから・・・。)とお思いになって、行く先、将来が頼もしげであるように、それぞれ専門の学問を習わせるよう決心なさいました。

(藤壷の入内)
 年月が過ぎても、帝は亡き更衣のことをお忘れになる折もありません。お心の慰めになろうかと、美しい姫君たちを入内させなさいましたが、亡き更衣に似ているような人もいないと分かり、世の中がすっかり厭になってしまわれました。桐壺帝にお仕えしている典侍(ないしのすけ)は先帝にもお仕えした人で、その母后の所にもよく出入りしていたので、先帝の姫君たちを幼い頃からよく存じ上げておりました。「特に四番目の姫君が、亡き桐壺の更衣のご容貌によく似て、世にもまれなご器量と評判の姫君でございます。」と申し上げましたので、帝は心を込めて入内を申し入れなさいました。
 母后は「なんと恐ろしいことよ。弘徽殿の女御(皇太子の母君)が大層意地悪で、桐壺の更衣があのように情けなく扱われ、あわれな最期と遂げられた事を考えますと、それは大層不吉なこと。」とご遠慮なさいました。はっきり入内の決心もつかない間にこの母后も亡くなってしまいました。姫君が心細いご様子でいらっしゃるので、桐壺帝は「ただ、私の女御子(おんなみこ)としてお扱いいたしましょう。」と大層心を込めてお勧めなさいました。
 姫君にお仕えしている人々や、御後見の人たち、御兄の兵部郷(ひょうぶきょう)の親王などは、姫君がこのように心細くいらっしゃるよりは、宮中にお住まいになれば御心の慰めになるとお思いになって、姫君を入内させなさいました。藤壷と申し上げるこの姫君は、本当に不思議なほど亡き更衣にご容貌が似ていらっしゃいました。ご身分も高く、大層ご立派な方で、誰も見下すこともできませんので、宮中で気がねなく振る舞っていらっしゃいました。亡き更衣は帝のご寵愛が大層深かったのですけれど、ご身分が低いことで世間がそれを認めることなく、大層お苦しみになりました。その更衣が亡くなられて以降、帝の悲しみが紛れることはありませんでしたのに、自然に御心がこの藤壷に移って、やがてこの上なく御心が癒されていきますのも、感慨深いものでございます。

 若宮は父帝のお側を離れることはありませんでした。どの姫君も各々大層美しいけれど、皆、大人に見えますのに、藤壷は本当に若く可愛らしくて、しきりに御簾に隠れなさいますが、若宮は自然とそのお姿をかいま見てしまいました。母・桐壺更衣の面影さえ覚えてはいらっしゃらないけれど、「大変、よく似ていらっしゃいます。」と典侍が言うのをお聞きになって、子供心にも、何か懐かしくお思いになって、いつも藤壷のお側に参りたく、馴れ親しんでお逢いしたいとお思いでございました。帝は、お二人とも限りなく愛しい者同志ですので、藤壷に「この御子をよそへ遠ざけなさるな。不思議に御子の母に、貴女を置き換えて見ているようですので、失礼と思わずにどうぞ可愛がってください。顔つき、目元など、大変よく似ていましたので、母のように見えるのも、無理ないのです。」など 仰せになりました。若宮は幼い心のままに、花や紅葉の頃につけても、藤壷を慕う心をお見せになるのでございました。このように格別に心を寄せていらっしゃいますので、弘徽殿の女御はこの藤壷とも御仲がよくないのに添えて、もとからの憎さも出て、この若宮を不快に思っておられました。
 この世に比べるもののないほど美しいと評判の高い藤壷のご容貌に比べてさえも、やはり若宮の光輝く美しさは、例えようもなく可愛らしいので、世の人は、「光君」(ひかるぎみ)とお呼び申しました。そして藤壷を、同じように帝のご寵愛を受けておられましたので、「輝く日の宮」とお呼び申しました。

〔源氏の君 御元服の儀)
 源氏の君は十二歳になられましたので、御元服の儀をなさいました。帝は源氏の君の御童姿があまりにも愛らしいので、変えるのは辛いとお思いになりましたが、儀式の規則どおりに、御心を尽くしてお世話なさいました。以前、紫宸殿で行われた皇太子(弘徽殿の春宮)の御元服の儀式に劣らないほど、立派に厳粛に催されました。宮人たちは、催される数々の祝宴なども、内蔵寮(くらづかさ)や穀倉院(こくそういん)などで公にお整え申し上げ、疎かなことがあってはならないと特別に帝のご命令もありましたので、素晴らしい限りを尽くしてお仕え申しました。御元服の儀式は、清涼殿の東の廂の間に東向きに椅子をしつらえて、冠者(元服する者)の源氏の君の御座と、引入の大臣(冠を被せる役)の御座が御前に置いてありました。申の時(午後四時頃)に源氏の君が参上なさいました。童の角髪(みづら)に結っていらっしゃいますのを、元服によって髪を削いでしまうのが惜しいほど、つややかに美しいご様子でした。大蔵郷(おおくらきょう)が理髪の役をお勤めになりました。輝くほど美しい御髪を削ぐ時に辛そうになさいましたので、帝は(亡き更衣が見たら・・・)と思い出され、また悲しくなられまして、気を強くと心に念じておられました。
 加冠の儀をお済ませになって、源氏の君はお休所においでになりました。御衣をお召し変えになり、東庭にお降りになって、謝意を表す礼をなさいますと、皆、人々は感涙を落としなさいました。帝はまして忍ぶこともできずに、思い紛れる折もあった昔のことを思い返して、大層悲しくお思いでございました。こんなに幼い年頃では、元服で髪を上げると見劣りがしないかとご心配なさっておられましたが、思いがけず可愛らしさが増したようでございます。

(左大臣の皇女・葵とご結婚)
 引入の左大臣の皇女でただ一人大切にご養育なさっている姫君(葵)を、皇太子(弘徽殿の春宮)から御所望があった時にお断りいたしましたのは、この源氏の君に差し上げたいという御心があったからでございました。帝は「若宮には、この折の御後見役もないようだから、姫君をぜひ添臥(そいぶし・元服の夜、添寝する姫)に・・・。」とお申し出なさいましたので、左大臣は快く承諾なさいました。けれど源氏の君はまだ恥ずかしいお年頃ですので、あれこれお応えにはなりませんでした。
 お休所にご退出なさって、人々が大御酒(祝酒)を召し上がる席で、源氏の君は、親王たちの御座の一番末席にお着きになりました。
 帝から宣旨を承りましたので、左大臣は御前に参られました。帝つきの命婦が取り次いで、御禄の物(ほうび)を賜りました。白い大袿(おおうちぎ)に御衣一揃、これは通常通りでございました。お盃を賜る折、

   いときなき 初元結に長き世を 契る心は結び込めつや
     (訳)まだ幼い源氏の君に初めて結んだ元結に貴方の姫君との長い世を契る心を結び込めましたか

帝が大層お心遣いなさいますと、左大臣は、

   結びつる 心も深き元結に 濃き紫の色しあせずは
     (訳)長い世をと契った心を込めた元結です。その濃い紫色があせないように、源氏の君の心が変わらなければよいのですけれど・・・

そう申し上げて、長廊下から東庭に降りて舞われました。更に左大臣は左馬寮(さまりょう)の御馬と蔵人所(くらうどどころ)の鷹を賜りました。清涼殿の階段のところに並んでいた親王たちや上達部たちにも、御禄の品をそれぞれに賜りました。その日の帝の御前の折詰物や篭物などは、右大弁に承って整えました。屯食(とんじき・強飯)や唐櫃 (からひつ)など、置く所もないほどで、皇太子の御元服の時より数で勝っておりまして、誠に限りなく厳粛な儀式でございました。

 その夜、左大臣の御邸に源氏の君を退出させなさいました。儀式(お婿入り)はこの上なく立派に整えられ、大切にお世話なさいました。左大臣は源氏の君が大層子供っぽくいらっしゃるのを、神に魅入られるほど不吉なまでに可愛らしいとお思いでございました。帝の左大臣へのご信頼が強く、母宮(姫君の母)は、帝の妹宮でしたので、大層ご立派である上に、この源氏の君まで婿としておいでになりましたので、皇太子の御祖父でいずれは天下の政治を執るはずの右大臣の勢いは、全く圧倒されてしまいました。左大臣には御子たちが多くいらっしゃいました。同じ皇族の母を持つ兄君(姫君の兄)は、蔵人少将といって、大層美しく若々しいので、右大臣はこれを見逃すことはできず、大切に育てていらっしゃる四君(しのきみ・第四番目の姫君)と結婚させなさいました。
 
 帝は源氏の君をいつもお呼びになって、側からお離しになりませんので、源氏の君は気楽に姫君(葵の上)のいらっしゃる左大臣邸でお過ごしになることができません。心の中では、ただ藤壷をこの上なく可愛らしいとお思いになって、そのような方とこそ結婚したいものだとお思いでした。左大臣の姫君も可愛らしく、大切に育てられた姫君と見えるけれども、どこか好ましく思えませんので、藤壷のことを幼い一途な心でただ恋しく、心に苦しいとまでお思いでございました。

(源氏の君は継母・藤壷を慕い……)
 しかし藤壷は源氏の君が元服なさって後は、今までのように御簾の中にお入れになることはなさいません。管弦の遊びの折など、藤壷の弾く琴の音に合わせて、源氏の君は笛をお吹きになり、時々聞こえてくる藤壷のほのかな声を心の慰めに、好んで宮中にいらっしゃいました。

五・六日宮中におられては、左大臣邸に二・三日というように、とぎれとぎれにご退出なさいましたが、左大臣は、今はまだ幼いお年頃なので、罪のないこととお思いになって、心をこめてお世話申し上げておられました。世の中の優れた女房たちを選りすぐってお仕えさせなさいまして、源氏の君の好みそうな催しをしては、できる限りのお世話をなさいました。
 宮中では、もとの淑景舎(亡き桐壺更衣の部屋)を源氏の君のお部屋と決め、母君にお仕えしていた女房たちが散々にならずにそのまま源氏の君にお仕えさせなさいました。
 桐壺の更衣の里のお邸は修理職(すりしき)や内匠寮(たくみつかさ)に帝の命が下り、この上ないほど立派に改築させなさいました。もとの木立や山の佇まいに池を広く掘って、大層趣のある様子になさいました。源氏の君はこのような所に心慕う人を住まわせて、一緒に暮らしたいものだと思っていらっしゃいました。

 光君という名は、朝鮮の人相見が大層お誉めして名付けたと言い伝えられているようです。

   ( 終 )
 

 源氏物語ー桐壺(第一帖) 
 平成十二年如月 WAKOGENJI(文・挿絵)

 背景 : 有識文様「綺陽堂」     

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