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現 代 語 訳
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ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候
我此 ほどは都に候ひて
洛陽の名所旧跡残な く一見仕りて候
また秋も末になり候へ ば
嵯峨野の方}ゆかしく候ふ間
立ちこ え一見せばやと思ひ候
これなる森を人 に尋ねて候へば
野の宮の旧跡とかや申 し候ふほどに
逆縁ながら
一見せばやと 思ひ候。
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僧「私は諸国を見物して歩いている僧です。
私、この間は都に居て、
洛陽の名所旧跡を残らず見物致しました。
また秋も末になりまして、
嵯峨野の方がどんなに面白かろうと思われ、
そこに行って見物したいと思います。
この森を人に尋ねたら、
野宮の旧跡だとか言うことだから、
通りがかりの縁ながら、
参詣して来ようと思います。
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われ此森に来て見れば
黒木の 鳥居小柴垣 昔にかはらぬ有様なり
こはそも何といひたる事やらん よし/\
かゝる時節に参りあひて
拝み申すぞあ りがたき
下歌「伊勢の神垣隔なく
法の 教の道すぐに
こゝに尋ねて宮所心も 澄める
夕かな心も澄める夕かな
シテ次第「花に馴れ来し野の宮の /\
秋 より後は如何ならん
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私がこの森に来てみると、
黒木の鳥居や小柴垣が昔と変わらぬ様子で
これは一体どうしたわけなのだろう。
折よく斎宮が野宮に入られるこの時期に
参詣できるとは有り難いことだ」
僧「伊勢大神宮は神佛の隔てをなされず、
その結果、佛法が正しく流布し、
この宮に参詣しますと心は澄み渡る美しい
夕景色でございました」
女「秋草の花を眺め慣れて野宮に来ましたが、
秋が去った後、どんなに寂しい事だろう」
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サシ「をりしも あれ物のさみしき 秋暮れて
なほし をりゆく袖の露
身を砕くなる夕ま ぐれ
心の色はお のづから
千草{ちぐさ}の 花にうつろひて
衰ふる身のならひ かな
下歌「人こそ 知らね今日ごとに昔の跡に立ち帰り
上歌「野の宮の森の木枯{こがらし}秋ふけて /\
身にしむ色の消えかへり
思へば古を 何と忍ぶの草衣
来てしもあらぬ仮の世に
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女「折も折、もの寂しき秋が暮れても、
やはり涙は絶える時もなく袂の袖を濡らし、
身を砕くほど苦しい夕暮れよ。
はなやかだった心もおのずから、
秋草の花が枯れると共に衰えていく
これが衰える身の習わしであろう。
人は知らないが、毎年今日昔の跡に帰ると、
野宮の森には木枯が吹き、秋も更けて、
身にしむ程美しかった花の色は消え失せて、
思えば昔を思い忍ぶ草衣がどこにあろう。
この世に帰っても昔の世はもうないのに
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行き帰るこそ
恨なれゆきかへるこそ恨なれ
ワキ詞「われ此森の陰に居て古を思ひ
心 を澄ますをりふし
いとなまめける女性一人忽然と来り給ふは
いかなる人にて ましますぞ
シテ詞「いかなる者ぞと問はせ給ふそなたをこそ
問ひ参らすべけれ
是は古斎宮に立たせ給ひし人の
仮に移 ります野の宮なり
然れども其後は此事 絶えぬれども
長月七日の今日は又 昔 を思ふ年々に
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行き帰りするのは、誠に恨めしいことだ」
僧「私がこの森の木陰に居て、昔の事を思い、
心を澄ましていると、
大層美しい女性が一人突然来られたが、
一体貴女はどういう方なのですか」
女「どういう者かとお尋ねになる貴方こそ
どういう方かお尋ねしたいです。
ここは昔、斎宮にお立ちになった方が、
仮にお移りになる野宮でございます。
その後この事は絶えてしまいましたが、
九月七日の今日は又、昔を偲ぶ日なので
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人こそ知らね宮所を清め
御神事をなす所に
行方も知らぬ御事な るが
来り給ふははゞかりあり
とく/\ 帰り給へとよ
ワキ詞「いや/\これは苦 しからぬ
身の行末も定なき 世を捨人の数なるべし
さて/\こゝは旧りにし跡を今日毎に
昔を思ひ給ふ いはれはいかなる事やらん
シテ詞「光源氏この処に 詣で給ひしは
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人は気づきませんが、この宮を掃き清め、
御神事を行っていますのに、
何処の人だか分からない方が、
ここに来られるのは畏れ多いことです。
早くお帰りなさいませ」
僧「いや私は不都合な者ではありません。
身の行末も定めなき、世を捨てた僧です。
さて、ここは古い旧跡で、今日毎に、
昔を思い出しなさるのは、どういうことなのですか」
女「光源氏がここに詣でなさいましたのが、
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長月七日の日けふに当れり
其時いさゝか持ち給ひし榊の枝を
忌垣の内にさし置き給へば
御息所{みやすどころ}とり あへず
神垣はしるしの杉もなきもの を
「いかにまがへて折れる榊ぞと
よ み給ひしも今日ぞかし
ワキ「げに面白き言の葉の
今持ち給ふ榊の枝も
昔にかはらぬ色よなう
シテ詞「昔にかはらぬ色ぞとは
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九月七日の今日の日に当たります。
其時、光源氏がお持ちになった榊の枝を
杜の垣の内にさして置かれましたので、御息所がとりあえず
『神垣は証の杉もなきものを、いかにまがへて折れる榊ぞ』と
( 訳) 神垣に目印の杉も立ってないのに、どう間違えて榊の枝を
お折りになったのでしょう
いかにまがへて折れる榊ぞ』と
お詠みなったのも今日でございます」
僧「いかにも面白いお話です。
今、貴女がお持ちになっている榊の枝も、
昔と変わらない色ですね」
女「昔に変わらない色というのは、
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榊のみこそ常磐の陰の
ワキ「森の下道秋暮れて シテ「紅葉かつ散り
ワキ「浅茅が原も 歌地「うらがれの
草葉に荒る る野の宮の/\
跡なつかしきこゝにし も
其長月の七日の日も今日にめぐり 来にけり
ものはかなしや小柴垣いとかりそめの御住居
今も火焼屋のかすかな る光は
我が思 内にある色や外に見えつらん
あらさびし宮所あらさびし此宮所
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ただ榊ばかりが、いつも常磐の色をして、
森の下道は秋が暮れて、紅葉が散り、
浅茅が原の草葉もうら枯れて、
野宮の辺りは全く荒れてしまうのです。
昔の旧跡として懐かしいこの野宮に、
あの九月七日の日が今日巡りきたのです。
儚い小柴垣を巡らしただけの仮のお住居、
今も火焼屋の幽かな光のように、
私の昔を偲ぶ気持が、外に見えないかと気遣われます。
あぁ何と寂しい所か、この野宮は……」
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ワキ「なほ/\御息所のいはれ懇に御 物語り候へ
クリ地「そも/\此御息所と申すは
桐壺の帝の御弟 前坊と申し奉り しが
時めく花の色香まで妹背の心浅か らざりしに
シテサシ「会者定離のならひもと よりも
地「驚くべしや夢の世と 程なく おくれ給ひけり
シテ「さてしもあらぬ身の露の
地「光源氏のわりなくも忍び/\ に行き通ふ
シテ「心の末のなどやらん
地「また絶々の中なりしに
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僧「もっと詳しく御息所の話をして下さい」
女「そもそもこの御息所と申す方は、
桐壺の帝の御弟、前東宮と申し上げた方が、
世に時めき華やかな頃、夫婦の契りを結ば
れ、愛情深くおられましたが、
逢う者はやがて必ず別れるのが世の習わし、
この世は夢のようなもの。間もなく死別されました。
そうもならない儚い身で、
光源氏が無理に忍んでお通いになりました。
源氏の御心が、その後どう変わったのか、
又絶え絶えの御仲になられました。
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クセ「つらき ものには さすがに思ひ果て給はず
遥 けき野の宮に分け入り給ふ御心
いと 物あはれなりけりや
秋の花みな衰へて
虫の声もかれがれに松吹く風の響まで もさびしき
道すがら 秋の哀しみも果な し
かくて君こゝに 詣でさせ給ひつゝ
情をかけて様々の言葉の露も色々の
御心の内ぞあはれなる。
シテ「其後桂の御祓
地「白木綿かけて川波の身は浮草の
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けれど御息所を嫌な者と思い捨てなさらず、
遠く野宮に分け入りなさった源氏の御心は、
やはり並大抵でなかったと思われます。
その頃、もはや秋の花がみな枯れて、
虫の声も絶え絶えに、松風の響きまで寂しく、
道すがら、秋の悲しみも果てしない。
こうして源氏の君は野宮にお詣りなさり、
御息所に情込めた様々な言葉を仰せになり、
その御心は悲しみ深いものでございます。
その後、御息所が桂川で御祓をなさり、
その時の白木綿を流した川の浮草のように
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よるべなき心の水に誘はれてゆくへも
鈴鹿川・八十瀬{やそせ}の波にぬれ/\ず
伊勢ま で誰か思はんの言の葉は
添ひゆく事も ためしなきものを親と子の
多気の都 路に赴きし心こそ恨なりけれ
ロンギ地「げにやいはれを聞くからに。唯人ならぬ御気色
其名を名のり給へや
シテ「名のりてもかひなき身とてはづ かしの
もりてやよそに知られまし
よ しさらば其名もなき身とぞ問はせ給へや
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頼る人もなく水に誘われて伊勢に下り、
「鈴鹿川八十瀬の波に濡れぬれず
( 訳 ) 鈴鹿川の瀬で波に濡れようとも、遠い伊勢まで 誰も思いをかけてくれはしまい……
伊勢まで誰か思ひおこせん」と詠んで、
母が斎宮に付添う事は前例がないが、親と子うち連れて
多気の都への路についた心こそ、恨めしいことです」
僧「お話を伺うと、いかにも普通と違ったご様子ですが、
その名をお名乗りください」
女「名乗っても甲斐のない恥ずかしい身の上
いつか漏れて世間に知られることでしょう。
ならば其名も亡き身として御回向下さい」
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地「なき身と聞けば不思議やな
さて は此世をはかなくも
シテ「去りて久しき 跡の名の
地「御息所は シテ「我なりと
地「夕暮の秋の風 森の木の間の夕月夜
影かすかなる木の下の 黒木の鳥居の
二柱に立ちかくれて失せにけり
跡たちか くれ失せにけり
中入間
ワキ歌待謡「かたしくや。森の木蔭の苔衣
同じ色なる草むしろ
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僧「亡き身と聞けば、不思議なことですが
それでは、この世を儚くも……」
女「去って久しく、今も名の残る
御息所は……私でございます」と、
夕暮の秋風吹いて、森の木の間の夕月夜
影の幽かな木の下の、黒木の鳥居の
二柱に隠れて、見えなくなりました。
姿は見えなくなってしまいました。
中入間
僧「僧衣の片袖を敷いて森の木蔭に寝ることとして、
同じ色をした草筵を敷き、
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思を述べて 夜もすがら かの御跡を
弔ふとかやか の御跡を弔ふとかや
後シテ「野の宮の秋の千草の花車
われも昔にめぐり来にけり
ワキ「ふしぎ やな月の光も幽かなる 車の音の近づく 方を見れば
網代の下すだれ 思ひかけ ざる有様なり
いかさま疑ふ所もなく 御息所にてましますか
さもあれ如何なる車やらん
シテ詞「いかなる車と問はせ給へば。
思ひ出でたりその昔。
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昔を思い出して夜もすがら、かの御息所の
弔いをするのだ。弔いをするのだ」
御息所「野宮に咲き乱れる秋の千草の花車に乗り
私も昔に(ここに)やって来たのです」
僧「これは不思議。月光も幽かな折、車の音の近づく方を見れば
網代車に下簾をかけ思いがけない有様だが、
これは疑いもなく御息所でございましょうか。
それにしてもその車はどうしたのです」
御息所「どういう車かとお尋ねになるにつけても、
思い出しました。その昔。
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シテカカル「加茂の祭の車争主は誰とも白露の
ワキ「所せきまで 立てならぶる シテ「物見車のさまざまに
殊に時めく葵の上の ワキ「御車とて
人を 払ひ 立ちさわぎたる其中に
シテ「身は 小車の遣る方もなしと答へて立て置きたる
ワキ「車の前後に シテ「ばつと寄り て
地歌「人々 轅に取り付きつゝ人だまひ の奥に
押しやられて 物見車の力もなき
身の程ぞ思ひ知られたる
よしや思へば何事も・報の罪によも洩れじ
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賀茂の祭りの車争いで、誰が乗っているかも分からぬ車が、
隙間なく立ち並んで、物見車は様々に雅に居ましたが
その中に「これは今を時めく葵上の御車と、
辺りの人を払いのけ、騒ぎ立てる中、
「私は小車で引き退ける所もない」と答えて立て置くと、
車の前後にぱっと寄り、
葵上の供人は轅にとりつき、供車の奥に
押しやられ、物見車の力もなく
身の程を思い知らされました。
それも思えば何事も、前世の罪の報いなのです。
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身はなほ牛 の小車の
めぐり/\来ていつまでぞ
妄執を晴し給へや 妄執を晴し給へや
シテ「昔を思ふ花の袖 地「月にと返す気色かな
序ノ舞
シテ「野の宮の月も 昔や思ふらん。
地「影さびしくも森の下露森の下露
シテ「身の置き処もあはれ昔の 地「庭のたゝずまひ
シテ「よそにぞかは る 地「気色も仮なる シテ「小柴垣。
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なのに、やはり我が身は恨めしく(憂し車)
こうしてこの世に巡り来て、いつまでも、
迷いの心を、晴らしてくださいませ」
御息所「華やかな昔を思い出し、月に舞を舞いましょう」
(序ノ舞)
御息所「野宮の月も、昔を思い忍ぶのでしょう。
寂しい影を森の下露に映しています。
思えば身の置き所も哀れな昔の、この庭の佇まいは、
他所とは違って優れていましたが、仮に作った小柴垣の
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地「露う ちはらひ訪はれし我も其人も
唯夢の 世とふりゆく跡なるに
誰{たれ」松虫の音はり ん/\として
風茫々たる
野の宮の夜すがらなつかしや
破ノ舞
地「こゝはもとより 忝くも
神風や伊勢の内外の鳥居に 出で入る姿は
生死の道を神は受けずや
思ふらんと
また車にうち乗りて 火宅の 門をや
出でぬらん 火宅の門
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露を払って訪れた私も、源氏の君も、
昔の夢と古くなり空しい跡となったのに、
誰を待ってか松虫がりんりんと鳴き、
風がぼうぼうと空しく吹いている。
この野宮の夜の景色が懐かしく思われます」
(破ノ舞)
御息所「ここはもとより忝なくも
伊勢の内宮外宮のその鳥居を出入りする姿は、
生死の道をさまよう者に見えましょう。
それでは神様もお受けになりますまい……」と、
また車に乗り、迷いの世界(火宅の門)から
出て行ったようです。火宅の門。
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