「源氏物語」について

 源氏物語は、平安時代中期1000年頃に、作者・紫式部によって書かれた世界最古の長編小説です。

その内容は、帝の御子でありながら源氏という臣下(ただ人)の身分に落とされ、皇位継承権を失った皇子(光源氏)の王権復活の物語で、当時の王朝貴族の華やかなりし時代を背景に語られています。

その構成は大きく3部に分かれ、全54 帖からなります。

第1部‥‥桐壺(第1帖)〜藤裏葉(第33帖)

光源氏の出生から、父帝の后・藤壷との密通そして懐妊、朱雀帝の姫(朧月夜)との密会発覚による須磨への流離を経て、准太上天皇に復権するまでの栄華の物語

第2部‥‥若菜上(第34帖)〜幻(第41帖)

光源氏晩年の物語。女三宮の降嫁、女三宮と柏木の密通による不義の子(薫)の誕生、紫上との死別など、光源氏の暗転の物語

第3部‥‥匂宮(第42帖)〜夢浮橋(第54帖)

薫を中心に光源氏の孫・匂宮と宇治3姉妹の愛と葛藤の物語


平安時代の写本などはほとんど残っていません。
原作より百年以上後の「源氏物語絵巻」国宝・隆能源氏の詞書が4巻のみ残っているだけで、巻物にして徳川美術館の3巻分と五島美術館の1巻分だけです。これらは原作を一部伝える物ですが、完璧な文章ではありません。

現在、私達が読む源氏物語は、鎌倉時代の初期の写本で、藤原定家(1162〜1241)の「青表紙本」と、もうひとつは、源光行・親行のまとめた「河内本」が元となっています。すなわち、紫式部が書き上げた2百年後の写本を読んでいるのです。(参考 : 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵)

しかし一千年前のこれらの文体は、我々の教科書にも取り上げられていましたが、難しい文法に捕らわれ過ぎて、華やかに繰り広げられる王朝貴族の栄華物語を理解するには大層難解なものでした。

 しかし明治以後、現代語訳「源氏物語」が多数でました。
与謝野晶子訳「新訳源氏物語」1912 / 谷崎潤一郎「潤一郎訳源氏物語」1939 /円地文子訳「源氏物語」1972 / 瀬戸内寂聴訳「瀬戸内寂聴訳源氏物語」1996等
 また、マンガ版「源氏物語」も十種以上に及び、その代表的作品 大和和紀訳「あさきゆめみし」1980 は、発行部数千六百万部を超えました。
今や「源氏物語」は国民的愛読書と言っても過言ではないでしょう。


徳川美術館・・・国宝源氏物語絵巻の「柏木」「横笛」巻を所蔵
名古屋市東区徳川町1017 電話・052ー935ー626www.cjn.or.jp/tokugawa/
五島美術館・・・国宝源氏物語絵巻の「鈴虫」「夕霧」「御法」を所蔵 
国宝「紫式部日記絵巻」の4巻を所蔵
東京都世田谷区上野毛3ー9ー25 電話・03ー3703ー0661




作者・紫式部について

 紫式部の生年は、973年頃と言われますが、確実なことはわかりません。父は越前や越後の国守を歴任した受領・中流貴族の藤原為時といい、生母は藤原為信の娘で、幼少のころ死別したようです。

 結婚は27才位の時で、夫は藤原宣孝(のぶたか)という20才も年上の人でした。宣孝は自己顕示欲の強い派手な性格で、相当な色好みで妻も三人おりました。28才で娘・賢子を産みますが、僅か3年で夫と死別します。

 夫の死後、時の最高権力者・藤原道長(966 〜1027)の娘彰子(しょうし)の女房として宮仕えし、源氏物語の執筆を始めました。「紫式部日記」には「一条天皇の中宮・彰子が敦成 (あつもり)親王を出産した御祝いとして献上された本である。」と書かれています。紫式部は当時の女性としては珍しく漢学の素養があり、宮仕えをして体験した宮中生活を女性の目を通して描いたのでしょう。

 源氏物語を書き上げた後の紫式部の消息は、ほとんど残っていませんが、一人娘の賢子は、後に後冷泉天皇の乳母となり、政府高官の典侍を経て、遂には上流階級の従三位の位階まで昇りつめました。

 紫式部が生まれ育った邸の跡が、今も京都に残っています。京都市右京区北之辺町にある廬山寺(ろさんじ)の境内が邸跡とされています。 

紫式部が葬られたとされる墳墓は京都市北区の紫野にあります。堀川通りの陰にひっそり隠れた苔むす塚は、晩年の頼りなさを伝えているようです。
 没年についても、長和3年(1014)とも寛仁3年(1019)とも言われて、はっきりわかりませんが、42・3歳の生涯だったとされています。

小倉百人一首に紫 式部 の歌が選ばれている。(新古今集)

   めぐり逢いて 見しやそれともわかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな

     (訳) 久しぶりにお逢いしましたのに、貴方かどうか見分けのつかない内に
         急いでお帰りの貴方は、雲に隠れてしまった夜半の月のようです。

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