豆 知識・エッセイ・その他雑学


  
( 目 次 )

「女房」とは妻にあらず…

「後宮制度」について

「源氏物語」にみる女性の名前

 国宝「源氏物語絵巻」について(五島美術館)

 気象から「源氏物語」を読む(石井和子著)

 源氏朗読(よみ)と黙読(見る)による享受


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・・・「女房」とは、妻にあらず・・・

現代語訳「源氏物語」では、「女房」という言葉をきちんと理解をしておかないと、物語を楽しむことはできません。
そもそも女房の「房」とは部屋を表します。宮中に仕える「女房」とは、特別に部屋を賜って、貴人の身の回りのお世話をしたり、その子女の教育に携わる身分の高い女官のことを言います。
光源氏の母君・桐壺更衣は、身分の高い大納言の娘で、宮中に参内し、内裏の一番北側の淑景舎(桐壺)というお部屋を賜り、お召しかえ(更衣)のお世話をする女房として帝にお仕えして、帝のご寵愛を一身に受けることになります。桐壺の部屋に住む更衣(女房)ですから、桐壺更衣と呼ばれます。当時の帝には沢山の女房たちがお仕えしておりましたので、桐壺更衣はその女房たちの妬みを受け、病床について亡くなってしまいます。(第1帖「桐壺」より)
当時は後宮制度ですから、貴族の子女は宮仕えをして、万一、帝のご寵愛を受け、皇子を産むことになれば、その一族が権力を手にすることが出来るわけです。身分の高い女性は、華やかに宮仕えすることが、エリートの証しであり、夢であったに違いありません。

ところが、1千年ほど経った現在、「女房」はどうなったのでしょう。
国語辞典によれば、女房とは「妻」「家内」を意味します。 確かに部屋を与えられ、主人の身の回りの世話をするというところは1千年たった今も変わりなく、女性にとっては、やはり「女房」になることは夢であるに違いないのでしょう。主人に仕え、身の回りの世話をして幸福と感じる女性は、それなりに良い人生を送ることになるのでしょうけれど、最近のように、若い女性が立派に自己主張するようになりますと、もはや「女房」になることが夢であるはずがありません。男性社会の中で女性が個々に才能を発揮して、凛として生きている姿が美しいと思える時代には、「女房」という言葉がやがてなくなってしまうのも仕方がないのかもしれません。
むしろ、男性の側から考えて、「妻はこうあってほしい!」という願いをこめて、「女房」という言葉がかすかに残っていく事になるのでしょうか?。

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後宮制度について

 後宮とは、天皇のいる清涼殿(せいりょうでん)の北側の後方にある御殿のことです。そこには、皇后、中宮、女御(にょうご)など天皇を囲む大勢の女性が住んでいました。
 後宮は七殿五舎からなる建物で、后の身分によってそれぞれ与えられ、清涼殿に近いほど身分が高いことになります。源氏物語で第一皇子を産んだ女御は、清涼殿のすぐ隣の弘徽殿(こきでん)を賜りますが、光源氏の母・更衣は、淑景舎(しげいしゃ)という後宮の東北の一番端を賜ります。 更衣とは、後宮にいる皇后、中宮、女御のさらに下の位で、帝の御寝所に仕え御召し替えを世話する身分の低い女官ですから、一番端でも仕方がないでしょう。
また天皇の日常生活に伴う事務・雑務を管理する女官として、後宮十二司(内侍司ーないしのつかさ・書司ーふみのつかさ等)があります。この女官たちによって後宮いっさいの事務が処理された。

後宮制度は、中国のそれを真似たもので、天皇は子孫を増やし絶やさぬためにも、后の多いことが望ましいため考えられたもののようで、后たちの数が多いほど天皇の権力が強いとされていました。貴族階級は、皆、娘を後宮に入れたいという野心を抱き、幸運にも自分の娘が帝の寵愛をうけて男御子を産めば、やがて自分が新帝の祖父として権力を握ることができた訳です。

後宮の人々を解説しますと、
中宮……皇后・皇太后(先帝の皇后)の総称。平安中期には皇后と同資格の后の称で、後宮女官の最高位であった。
女御……皇后・中宮に次ぐ天皇の夫人の地位。住まう殿舎の名によって区別され、「弘徽殿の女御」とか「藤壷の女御」と呼ばれた。
更衣……女御に次ぐ天皇の夫人の地位。
  [ 注 ]外戚(がいせき)……これら天皇の夫人の地位はすべて親の地位によって決められる。宮廷社会における外戚(女方の親戚)の地位が非常に重要であったことが分かる。

女房……各天皇の夫人の部屋にはべる侍女で、部屋(房)を賜って後宮に住まった。後宮に住んで奉仕する生活を宮仕えという。
尚侍(ないしのかみ)・内侍司(ないしのつかさ)……女官の長官で、天皇の側近にあって、臣下との取り次ぎ役を果たした。のちには夫人と同等のものとなった。「局」と言われる女性は尚侍であった。また内侍司の次官典侍ものち天皇夫人となった。
御息所……天皇夫人の総称。また親王・内親王を産んだ女性や皇太子妃・親王妃を指すのにもちいられる。
乳母……高位の貴族女性は出産をしても授乳をせず、同時期に出産した女性の乳によって育てた。乳母はその御子の後見役にあたった。

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女性の名前について

平安時代中期の頃、貴族社会では皇后や中宮以外は女性の実名が残っていません。
 源氏物語では、光源氏の母は桐壺の更衣と呼ばれます。それは帝の寵愛を受けた更衣が桐壺というお部屋を賜ったからです。桐壺の漢名は淑景舎(しゅげいしゃ)で後宮の東北の一番端にあります。(内裏の図参照) 淑景舎は桐壺、飛香舎は藤壷と呼ばれますが、これは部屋の前にある庭のことを「壺」といい、その庭に桐が植えてあるので桐壺、藤が植えてあるので藤壷と呼ばれ、そこに住む姫として「桐壺の更衣」とか、「藤壷の中宮」などと呼ばれたわけです。
 宮中に宮仕えした女房たちは、その役職や父の官名などで呼ばれていたのです。

源氏物語の文中には、女性は女君とか姫君と著され、固有名詞は出てきません。
 
紫の上や末摘花などは、女と源氏の君とが交わした歌の中から取った名前で、第5帖「若紫」より( 手に摘みて いつしかもみむ紫の 根に通ひける野辺の若草 )の歌から若紫・紫の上と呼ばれ、第6帖「末摘花」より( 懐かしき 色ともなしに何にこの 末摘花を袖に触れけむ )の歌から、末摘花と呼ばれるようになりました。また、源氏の君との関わり方から付けられたものもあります。第4帖「夕顔」は、六条の御息所の御邸に行く途中の夕顔の花の咲く粗末な家に住む美しい姫との物語ですから、夕顔の姫君と呼ばれ、また、第8帖「花宴は」、紫宸殿の桜の宴で「朧月夜に似るものぞなき・・・」と詠いながら来る姫君との物語ですから、朧月夜の君と呼ばれます。
 すなわち、後世にその読者が物語にちなんでつけた名前なのです。

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国宝「源氏物語絵巻」について(五島美術館)

国宝「源氏物語絵巻」は、紫式部の書き上げた「源氏物語」を、その150年以上も後の12世紀前半に絵巻にした最古の作品です。残念ながら現存するのは全体の四割弱、巻物にして徳川美術館に3巻分・五島美術館に1巻分の合計19図です。この絵巻を描いた人が藤原隆能(ふじわらたかよし)という宮廷画家ですので、この絵巻を現在でも「隆能源氏」と呼びます。

源氏物語絵巻の構成は、巻数として10巻本として成立したと言われています。(他に12巻説、20巻説あり)
その内容は、
詞書(ことばがき)として文学「源氏物語」の原文のままを書き、その伝承筆者として藤原伊房(ふじわらのこれふさ1030〜96)、寂蓮(じゃくれん1143?〜1202)、飛鳥井雅経(あすかいまさつね1170〜1221)等が挙げられます。
 
絵は、物語の劇的な図柄や挿話を一帖から1〜3場面選択して描かれています。藤原隆能(ふじわらたかよし1126〜74?)の筆と言われますが、定かではありません。五島美術館が所蔵する1巻分(第38帖「鈴虫」〜第40帖「御法」)が、江戸時代に藤原隆能筆と鑑定を受けたため「隆能源氏」と呼ばれますが、記録上、隆能と絵巻を結びつける証はありません。

については、剥落のため紙の地肌が露出した部分を分析すると雁皮紙(がんびし)を使用していると推定されます。これはガンピ(ジンチョウゲ科の植物)の繊維を原料とする和紙です。
絵具(顔料)はおおよそ9色に大別されます。白(鉛白)・赤(朱・臙脂)・橙(鉛丹)・黄(鉛白と藤黄)・緑(岩緑青)・青(岩群青)・黒(墨)・金(金泥)・銀(銀泥)。
画法の特徴としては、「吹抜屋台」(ふきぬけやたい)と「引目鉤鼻」(ひきめがぎばな)があげられます。前者は屋内の描写に用いられ、視線をふさぐ屋根や天井を省略し、柱の上端をつなぐ線で、天井の存在を暗示しています。部屋のどの場所にも人物や調度を配置できるし、さらに、柱や屏風・御几帳で区切って画面を構成しています。人物の顔の表情として使われた「引目鉤鼻」は平安時代から鎌倉時代によく用いられた技法で、鑑賞者に自由な感情移入を可能にしています。幅の広い眉、ほとんど一本の線に見える目(引目)、「く」の字形の鼻(鉤鼻)、小さな赤い点のような口などが特徴的に描かれています。

二千円札に使用されたのは、国宝「源氏物語絵巻」第38帖「鈴虫」から、光源氏とその御子・冷泉院の絵で、横で笛を吹くのは、公達のひとり夕顔(源氏の御子)と言われます。物語は、八月十五夜の夜、冷泉院の邸で月見の宴が催されました。満月を眺めながら、公達が音楽を奏でる中、実の親子である源氏の君と冷泉院が静かに語り合う……という場面が描かれています。  

 以上。

(参考「国宝」源氏物語絵巻ー隆能源氏のすべて[財団法人五島美術館]より)

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気象から源氏物語を読む(石井和子著)

以前、石井和子氏(気象予報士会会長)の書かれた興味深いエッセイが東京新聞に載りました。
ここに、ご紹介したいと思います。

「いづれの御時にか、女御(にょうご)、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなききわにはあらぬが、すぐれてときめき給ふありけり」おなじみ「源氏物語」の冒頭です。古文の時間に目にした方も多いことでしょう。このなかで、作者の紫式部が、さまざまな気象現象を驚くほど効果的に使っていることをご存知でしょうか。時雨、雪、あらし……。場面ごとの天気は、情景とともに光源氏や源氏を取り巻く女性たちの複雑な心を映しだし、また、源氏の転機にダイナミックな気象現象を用意して話を展開させるなど、読めば読むほど紫式部の「気象センス」のすばらしさに感心させられます。

 実は、日本には、気象観測が始まった明治以前の気温変動を示す詳しい資料は残っていません。それでも江戸時代は比較的多いのですが、平安時代の気象となると、断片的な資料を何とか寄せ集めて推理する以外に方法がありません。

ところが驚いたことに、紫式部が物語りの中に描いた気象現象はどれをとっても正確でむだがなく、その時々天気図まで彷彿とさせるのです。しかもコンピューターで日々つくられる天気図と全く遜色がないのです。千年以上昔の科学意識のかけらさえなかった時代に描かれた天気が、現代の天気図とこんなにも一致するなんて……。気象予報士の私が、物語に最ものめり込むこととなった理由もここにあります。

 「源氏物語」の中から推定できた現象のいくつかを挙げてみましょう。
まず、光源氏を囲んで五月雨どきに行われた女性の品評会いわゆる「雨夜の品定め」は、梅雨明け前夜に行われたことが分かります。また、源氏と朧月夜の君との不倫発覚は、梅雨末期・明け方の大雷雨であったり、さらに「野分の帖」にでてくる台風は、1934(昭和9)年の第一室戸台風とコースや特徴、通過時間などがとてもよく似ていたことも分かります。大木の枝が折れたり、家々の瓦が飛んだりする描写が「源氏物語」中にあることから、当時の京都は少なくとも風速25メートル以上の暴風域にはいっていたと考えられるのです。

 また、源氏は朧月夜の君との事件がもとで須磨に退去することになるのですが、ここで源氏は、大雨や雷による悪天が12日も続く「須磨の嵐」に遭遇します。旧暦3月1日(今の3月末から4月半ばごろ)のことで、私はこれを「寒冷渦」で説明できるのではないかと思います。寒冷渦とは、たいへん冷たい空気を持つ低気圧で、上空の流れから取り残されているために動きが遅く、何日も大雨や雷雨の続くことが特徴です。陽射しの強まった春先は、暖かい地面と冷たい上空との温度差が大きくなるので、天気はよい不安定となり、しばしばたくさんの積乱雲が発生します。

 それにしても紫式部の時代に現在と同じような気象現象があったのだろうかと思って調べたところ「天慶元年6月京都並近国雷神十余日」という記録をみつけました。寒冷渦によって何日も雷雨が続くことがあるのは、今も同じだったようです。
 寒冷渦は、今でこそ、気象衛星「ひまわり」による雲写真で確認されたり、話題になったりもしますが、気象学としてとりあげられるようになったのは、ほんの十数年ほど前からです。気象学として新しい寒冷渦を紫式部が千円も前に物語の中に取り入れていることにびっくりさせられます。さらには、前出の朧月夜の君との不倫発覚事件のもととなった夜明けの大雨については、去年になってようやく「大雨は夜半に起こりやすい」という研究が気象学会で発表されましたが、紫式部はすでにその事を知っていたのではないかとさえ思われます。

 今回「源氏物語」に書かれている気象を調べたことで、はるか遠い平安の天気の様子と、そこに暮らす大宮びとたちの息遣いを、より身近に感じることができました。古典は取っつきにくいと思っている皆さん、平安の気象予報士が残した傑作をもう一度読んでみませんか。 (東京新聞・原文のまま)

*石井和子(フリーアナウンサー・気象予報士会会長・学習院大仏文科卒・東京在住・著書に「平安の気象予報士 紫式部」講談社)

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源氏朗読(よみ)と黙読(見る)による享受

古来、「源氏物語」は写本の黙読による享受と、朗読による享受が並行して行われてきたと言われる。後者の朗読(源氏語り・源氏読み)は、その語り手の息遣いや抑揚で、古典「源氏物語」の世界を生き生きと体感させてくれるものである。

現在、その第一人者と言われる幸田弘子(こうだ ひろこ)さんは84年度芸術選奨文部大臣賞を受け、今の朗読や語りのブームに大きく貢献したと言えよう。

公演「瀬戸内寂聴訳・源氏物語朗読」も今年4回目を迎え、幸田弘子をはじめ、多くの女優等がこの朗読に挑戦している。中でも、97年度文化庁芸術祭大賞(演芸部門)を受賞した平野啓子さんに注目が集まる。

(以下は、朝日新聞(太田博氏著)のコラムより抜粋)
その中で97年度文化庁芸術祭大賞(演芸部門)を受賞した平野啓子さんに注目してみた。NHKのニュース番組でキャスターを努め、テレビドラマのナレーターなどを経て、語り芸のプロに転向した。今一番の売れっ子である。「女三宮」(若菜)を読んだ。(2月26日、東京・銀座博品館劇場)
 源氏の妻・女三宮の不倫と妊娠。源氏はかつて藤壷と密通したわが身と重ね合わせる。そんな男女の猛攻で深淵な関係を日ごろ清楚な語り口を売り物にしている平野がどう読み上げるか。

 久世光彦の演出は、テンポのよい語りやBGMで耳に迫り、煙幕と和風のオブジェを設えて視覚を捕らえた。それに演者の小さな所作と加えた抑制の利いた作りである。テレビの名演出家らしいきめ細かさに支えられたステージとなった。

 平野の語りはやや硬さを感じさせたが、流麗によどみなく発せられる言葉がみやびの世界を効果的に描きだした。会話、地語りとともに語調がそっけないほど均質になったため、一見平板に聞こえるが、ともすれば俗に流れやすい内容の物語をほどよく踏み止まらせ、期せぬ高価となった。あえて苦言を呈すならば、「きれい事に過ぎた」点である。話の内容と比べて、[読後感]がサッパリし過ぎ。逆説的にいうなら、もっとぎこちなさがあってもいい。この「源氏読み」はこれからまだまだ続くのだから。(以上)

今後いろいろな形で「源氏物語」を楽しむことができる中で、この朗読という世界にも注目したいものである。 

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