源氏の君は、夕顔の花に置く露のように、儚く亡くなった夕顔の姫君を、月日が経った今でも、なお愛しく忘れることができずにおられました。正妻・葵の上も六条の御息所も皆、心打ち解けることがなく、用心深く競争心の強い方でしたので、それに比べて、親しみやすく心から打ち解けてくれた愛しさを、大層恋しいとお思いになりました。
(何とかして夕顔のように、愛らしく慎ましい女性を見付けたいものだ )と、源氏の君は懲りずに思い続けておいでになりました。風情のある女性という噂話には、少しも耳をお留めにならずに、(もしや……)と御心の動く女性のもとにこそ、ほんの一行ほどのお便りをお送りになるのですが、そんな時に源氏の君のお誘いにも靡(なび)かず、疎遠な態度をなさる女性は、めったにないようでございました。よそよそしくて気の強い女性は、情に乏しく余り常識を知らぬようですが、やがて以前の意地もすっかり崩れて、平凡な男の妻に納まる人もあるので、源氏の君から、恋の途中でおやめになってしまうことも多くありました。
源氏の君が、大弐(だいに)の乳母(めのと)の次に大切に思っておられる左衛門(さえもん)の乳母(めのと)という人がおりました。その娘で大輔命婦(たいふのみょうぶ)という女房は、誠に色好みの若女房で、源氏の君はこの女性をもお召し使いなさいました。母親は筑前守の妻となってその任国へ下ってしまいましたので、父兵部大輔(ひょうぶのたいふ)の家を里方として、宮中にお仕えしておりました。
故常陸(ひたち)の親王(みこ)が晩年にもうけて、大層大切にお育てになりました姫君が、父親王に先立たれ心細くお過ごしでいらっしゃることを、大輔命婦がもののついでに源氏の君にお話し申しましたところ、
「お気の毒なことよ」と仰せになり、御心を留めてお聞きになりました。
「姫君のご性格やご容貌など深くは存じませんが、ひっそりとお暮らしで、あまり人とも親しくなさらないので、何か用のある時などは、物越しにお話しをなさるようです。さらに琴を親しい相手と思っているようで……」と申し上げますと、
「琴は三つの友(琴・詩・酒)と言われ、結構なことです。父親王がその方面に大層優れておられましたので、姫君も普通の技ではありますまい。私にその琴を聞かせてくれないか。」と仰いました。
「そのように、特にお聞きになるほどお上手ではありません」と申し上げましたけれど、
「いつか朧月夜にでも、そっと出かけることにしよう。一緒に来てくれるね」と仰せになりましたので、命婦は面倒とは思いましたが仕方もなく、宮中ものんびりした春の退屈な折にお出かけなさいました。
(常陸宮邸にお出かけになり……)
十六夜(いざよい)の月の美しいころに、源氏の君は常陸宮(ひたちのみや)邸にお着きになりました。
「本当に困ってしまいます。特に琴の音が澄み渡る夜でもございませんのに……」と命婦(みょうぶ)が申しますのに、源氏の君は、
「姫君の所に行って、ほんの一節でよいから琴をお弾きになるようにお勧めして下さい。このまま、それを聞かないで空しく帰るのは、残念ですから……」と仰いますので、この取り散らかした住処に、源氏の君をお待たせするのは、後ろめたくもあり畏れ多いことと思いましたので、仕方もなく寝殿の方に参りました。
姫君は梅の香の薫る月夜の庭を眺めていらっしゃいました。命婦はちょうど良い折だと思って、
「琴の音色がどんなにか引き立つ今宵の風情に誘われてまいりました。日頃は忙しく出入りして、お琴をゆっくり聞けませんでしたので、残念でなりませんでした」と申しますと、姫君は、
「琴の音の美しさを分かって下さる方がいるのですね。宮中に出入りなさる人がご満足なさるほど上手くは弾けませんが……」と琴を引き寄せなさいました。命婦は、源氏の君がどうお聞きになるかと、胸がつぶれる思いがいたしました。
姫君がほのかにお弾きになる琴の音は、十分美しく聞こえました。どれほど上手というお手並みではありませんが、琴は音色が特に素晴らしいので、源氏の君はさほど聞き難くもお思いになりませんでした。(常陸宮ほどの高貴な方が、古めかしく窮屈なほど大切にお育てになった姫君ですのに、このように大層荒れ果てたお屋敷で、どんなに寂しく過ごしておられるだろう。このような所にこそ、しみじみと心打たれる昔物語があるものだ)等と思い続けられ、姫君に言い寄ろうとお思いになりましたが(あまりにも突然では……)と、心恥ずかしく躊躇(ためら)っておられました。
命婦は才気のある女性でしたので、琴の音を耳慣れるほどに、長くお聞かせするまいと思いまして、
「空も曇ってきたようです。お客様が来ると申されましたので、また後ほどゆっくりと……」と、あまり熱心にお勧めもしないで、こちらに戻ってきてしまいました。源氏の君は、
「なかなかと思える程度で止めてしまったのですね。上手かどうか聞き分ける間もなく残念だ」と仰せになり、なかなか興味深いこととお思いのようでございました。
「もっと姫君の近くで、立ち聞きをさせておくれ」と申されましたが、命婦は心惹かれる程度にと思いましたので、
「さて、いかがなものでしょう。姫君は大層心細そうな様子で、気持ちが沈んでいらっしゃいますので、お側近くなどはとても気が咎めまして……」とお応えしました。
源氏の君は(なるほどそれは尤もな事、急に男と女が打ち解けて語り合うのは難しい)とお思いになり、姫君がしみじみ愛しくなられましたので「この私の気持ちを姫君にお伝えくだされ」とだけお話しになり(また、他にお約束なさった方があるのかもしれない)とお思いになって、人目を忍んでお帰りになりました。命婦は、
「帝が貴方様のことを真面目過ぎると、ご心配なさっていらっしゃいますのが、可笑しく思えることがあります。このようなお忍び姿を、帝はどうご覧になるでしょうか」と申し上げますと、源氏の君は引き返して来て、笑いながら、
「人の欠点を探しだすものではないよ。この私を浮気っぽいと言うのなら、貴女の振る舞いの弁明はもっと苦しいだろうね」と仰いました。命婦は、源氏の君が自分を好色者とお思いになって、このような言い方をなさることを恥ずかしく思って、何も言えずにおりました。
(物陰に頭中将が……)
ある日源氏の君は、姫君のいらっしゃる寝殿の方でなら、そのご様子を知ることができようかと、忍んでにお出かけになりました。庭の透垣(すきがき)が少し折れ残っている物陰にお立ち寄りになりますと、そこには以前から立っている男がおりました。(誰だろう。姫君に想いを寄せている男だろうか)と、物陰にお隠れになりますと、何と頭中将 (とうのちゅうじょう・妻葵の兄)でございました。
この日の夕方頃、源氏の君は頭中将とご一緒に内裏をご退出になりましたが、そのまま左大臣邸にも二条院にもお立ち寄りにならず、途中から頭中将とも別れて行かれましたので、頭中将は、
「どちらに行かれるのだろう」と、源氏の君の後について、様子を伺っていたのでした。
粗末な馬に乗って、狩衣姿の無造作な服装でしたので、源氏の君は全くお気付きにならなかったのです。源氏の君が大層みすぼらしい御邸にお入りになりましたので、頭中将は、
「納得がいかないが、どうせ間もなくお帰りになるだろう」と、琴の音に聞き入って立っておりました。源氏の君は、ご自分のことを知られまいと抜き足で歩いておられましたところへ、頭中将が寄ってきて「私を途中で振り捨てて、お出かけになるとは、恨めしいことです。」
もろともに大内山は出で連れど 入る方見せぬ十六夜の月
(訳) ご一緒に大内山(宮中)を出ましたのに、行く先を隠して見せない十六夜の月
のような貴方ですね
と申し上げました。源氏の君は恨み事を言われるのは厭だけれど、それが頭中将だとお分かりになると少し可笑しくなられて、
「後をつけるなどは、思いもよらぬことだ。
里分かぬ かげをば見れど行く月の いるさの山を誰がたずねる
(訳) どの里かわからず 照らす月の光のさす山の隠れ家までも、
誰が訪ねて行くものですか
頭中将は「このようなお忍び歩きは、随身(ずいじん・お供)の手引きですみやかに進むものです。今後は、私を後に残して行かないでください。身をやつしてのお忍び歩きは、とかく軽率なことが起きるものですから……」と逆にお諌め申しました。お二人は一つの御車(みこし)にお乗りになって、雲隠れする月あかりの道中を、笛を吹き合わせながら、左大臣邸においでになりました。そっと御邸に入られて、人目のない廊で御直衣にお召し換えなさいました。そして御笛を吹き興じておられますと、左大臣がいつものように聞き過ごしなさらずに、高麗笛を取り出しなさいました。左大臣は笛の名手でおられますので、大層趣深くお吹きになりました。そして琴を取り寄せて、心得のある女房たちにお弾かせになりました。
中務(なかつかさ) の君(葵上に仕える女房)は、とりわけ琵琶(びわ)を上手に弾きますが、頭中将が想いを寄せているのにそっけなく、時たま見せる源氏の君の情を大層慕わしく思っておりましたので、自然にそれが知れ渡って、大宮(葵上の母)にも好ましくないと思われておりました。中務 の君は、ここにお仕えするのは体裁悪い気がして、思い悩んでおりました。けれども源氏の君に逢えないような所に、離れてしまうのも辛いことですので、さすがに心細く思い乱れておりました。
源氏の君と頭中将のお二人は、先ほど聞いた常陸の姫君の琴の音を思い出して、その寂しくみすぼらしい住まいの様子を、風変わりで趣深いものと思いました。頭中将は(あり得ない話だけれど、大層可愛らしい姫君が、あのような惨めな所に住んでおられて、自分がその人を見染め、狂おしいほど愛しいと思ったなら、世間から騒がれるばかりか、自分まで惨めになるだろう)と思いました。しかし(源氏の君が、このように心してお出かけになるのを、このまま見逃すことはできまい)と、妬ましくも気がかりにお思いになりました。
その後、源氏の君からも頭中将からも、常陸の姫君にお手紙をお遣わしになりましたが、姫君からは、どちらにもお返事がなく、気がかりで不愉快にお感じになりました。(あのようにみすぼらしい住まいで生活している姫君なら、ものの情趣を解しているご様子を、儚い草花や空の様子に託すなどして、自分の気立ての良さを相手に分かってもらおうと、お返事を下さるのが好ましいのに、こうもつれなくなさるのは、不愉快で良くないことだ)と、頭中将は、源氏の君より一層心が苛立っておりました。頭中将が、
「姫君からのお返事はご覧になりましたか。私も試しに一筆そっと送ったのですが、返事もなく、体裁悪い思いをしました」と申しますと、源氏の君は(やはり頭中将も姫君に言い寄ったのか)と苦笑なさいまして、
「返事も見ようとも思わないし、見ることもないし……」と曖昧にお答えになりましたので、(姫君が人を差別しているのかもしれない)と、さらに憎らしく思われました。 源氏の君はそれほど深く想っていなかったので、このように情けなく扱われることで、すっかり興が冷めたようにお思いになりましたが、こうして頭中将が言い寄ったのを知った今、中将に負けたくないとお思いになりましたので、(言葉数が多く、言い馴れたほうに姫君は靡くのであろうか……)と命婦に熱心にご相談なさいました。
「姫君のお気持が気がかりでなりません。私を相手になさらないご様子は大層辛いものです。姫君は私を浮気っぽい男と疑っておいでになるのでしょうか。世間で言うように、私はすぐ心変わりするような薄情者ではありません。心穏やかで、親、兄弟で恨み言を言う者もおりません。常陸の姫君のようにおっとりした控え目な女性は、きっと可愛らしいに違いありません」と仰いました。命婦は 「さて、源氏の君のように趣深い方のお立ち寄り所としては、とても相応しくないように見えます。姫君はただ遠慮深く内気という点では、素晴らしい方でございますが……」とお話し申し上げました。
源氏の君は(洗練されて、いかにも男馴れしているというところはないようだ。大層子供っぽく、おっとりしているなら、可愛らしく思われるだろう)と、亡き夕顔の姫君を思い出しておられました。
源氏の君は瘧病 (わらわやみ・熱病)を患いなさいました。密かな藤壷への想いに取り紛れ、御心の安まることもなく、春・夏が過ぎてしまいました。
秋になっても、夕顔の姫君のことを静かに思い続けなさいまして、夕顔の宿で聞いた砧 (きぬた)の音が耳について聞き辛かったことさえ、今は恋しく思い出されました。その愛しい夕顔の姫君にご性格のよく似ている方ならば……と、常陸の姫君には度々お手紙を差し上げなさいましたが、やはりお返事がありませんので、世間なみの情もないのかと不愉快にお思いになりましたが、このまま負けて引き下がるものかと、命婦をお責めになりました。命婦もお気の毒に思い、
「私がこの縁を不似合いなことと姫君に仕向けているのではありません。ただ姫君は通常の遠慮深さとしては度が過ぎていまして、どうしてよいのか分からないのだと思います」と申し上げました。源氏の君は「それこそ男女の情を解さないというものです。まだ分別も分からない年齢だとか、自分の身を思うようにできないほどのご高齢ならばともかくも、姫君は、何事も落ち着いて判断できる方だと思うからこそ言うのです。私も何となく心細く思われますので、私と同じ心細い気持ちでお返事をくださるなら嬉しいのです。なにやかやと世情に通じた方とでなく、あの宮邸の荒れた簀の子(板敷き)に佇んで、姫君とお話しがしたいのです。このままでは、とても不愉快で納得がいきませんので、姫君のお許しが無くとも、何とかうまく手引きをしてくれないか。貴女の心をいらいらさせたり、不愉快な御扱いをすることは、決してありませんから……」と仰せになりました。
命婦は大層煩 わしく思いました。(姫君はほとんど男女の情を解しもせず、奥ゆかしさをそなえている訳でもないのですから、自分の手引きのために、かえって姫君にお気の毒な結果になりはしないか)と心配をしていました。けれど源氏の君が大層真面目に仰るので、聞き入れないのも失礼になると困惑しておりました。
父常陸宮がご存命の頃でさえ、古びた御邸へお訪ねになる人などなかったのに、まして今は、生い茂った雑草を踏み分けて訪れる人などすっかり絶えておりました。そこへ、ご立派な源氏の君がお訪ねになり、世にも素晴らしい気配が漏れ薫ってきますので、下働きの女房なども微笑みながら、
「やはりお返事なさいませ」とお勧めしました。けれど姫君は呆れるほど内向的なご性格で、源氏の君からのお手紙をご覧になろうとさえなさいません。
命婦は(それならば、都合の良さそうな時に、物越しにお話しをなさいまして、源氏の君のお気に入らなければ止めればよし、また、それ相当のご縁があって仮にもお通いになった時には、それを咎める人はないでしょう)。自分の浮気っぽい性格からそう考えて、父君(兵部大輔)にも、この手引きのことを話しませんでした。
(再び、常陸宮邸を訪れ……)
八月二十日過ぎ、月の出が宵過ぎとなる何となく心許ない頃、星の光ばかりが澄んでいて、松の梢に吹く風音が心細く感じられますので、姫君は昔のことを思い出しては泣いたりしていらっしゃいました。命婦はちょうど良い時と思って、ご連絡申し上げたのでしょう。いつものお忍びで、源氏の君がおいでになりました。月がようやく出て、荒れた垣根の辺りは大層気味悪く見えました。源氏の君がそれを眺めておられますところへ、命婦に勧められて姫君が琴を少しだけお弾きになりました。その情景は大層美しいものでございました。人目もない所なので、もう少し近くでお聞きになりたいと、源氏の君は気楽に御邸の中にお入りになりました。そして命婦は姫君に、
「これこれの次第で源氏の君がおいでになりました。いつも姫君との逢瀬の手引きを整えないことを恨んでおられまして(私の一存ではどうにもなりません)とお断り申し上げておりました。普通の方の気軽なお忍びではありませんので、このままお帰しするのも失礼になりますから、物越しに源氏の君のお話だけお聞きなさいませ」と申しました。 姫君は大層恥ずかしいと思って、
「人にお話し申し上げるやりかたもしらないのに……」と言って、奥のほうにいざってお入りになりました。その様子が大層初々(ういうい)しげでございましたので、命婦は笑いながら、
「本当に幼くいらっしゃるのですね。どんなに身分の高い人でも、親などがお世話をして、しっかり後見申し上げている間は、子供っぽいのも仕方ないけれど、姫君のように親も亡くなり、後見もない心細い状態なのに、相変わらず男女のことに尽きせず遠慮なさるのは良くありません」とお教えしました。さすがに内向的な姫君も、人の言うことを強く断ることができませんので、
「問いかけにお応え申し上げないで、ただお話を聞くだけならば……、きちんと格子戸を閉めてならお逢いしましょう」とおっしゃいました。
「簀子(すのこ)の所に源氏の君をお通しするのは畏れ多いのですが、源氏の君が無理やり軽率な振る舞いをなさることはないでしょう」と上手に説き伏せて、客間のしきりの襖 (ふすま)を、命婦自らで固く締め切り、簀子の上に敷物を敷いて、源氏の君をお通しいたしました。
姫君は大層きまり悪くお思いになりましたが、このように男性とお逢いする心得など全く知りませんでしたので、命婦が言うとおりに任せておりました。若い女房たちが、源氏の君の美しいお姿を見たいと心配りをしておりました。姫君にほどよい御衣にお召し換えし、身なりを整えてさしあげますと、姫君は何の心の準備もなさらないままでお逢いになりました。
源氏の君の限りなく美しい御容姿を、目立たないように取り繕いなさいましたご様子が、誠に優雅でしたので、命婦は(情趣など心得た人にこそ、お見せしたい御姿ですのに、少しも見栄えのしないこんなお忍びの逢瀬ではお気の毒で……)と思いました。ただ姫君がおっとりしていらっしゃるので、一安心しておりました。自分が源氏の君から強いられた手引きをしたことで、このお気の毒な姫君に物思いの種ができるのではないかと心配しておりました。
源氏の君は、姫君の高貴なご身分をお考えになりますと、今風の上品ぶった女性より、この上なく奥ゆかしくお思いになりました。姫君が女房たちに勧められて、いざり寄ってこられますご様子は、もの静かで、香が心惹かれるように薫って、誠におっとりしたご様子なので、予想通り素晴らしいとお思いになりました。長い間、心を占めた想いを絶妙に語り続けなさいましたが、ましてこんな近い所でさえ姫君はお返事は全くなさいません。源氏の君は「どうしようもない……、
いくそたび 君がしじまに負けぬらむ ものな言ひそと言わぬ頼みに
(訳) 幾たび貴女の無言に負けてしまったことでしょう。ものを言うなと
貴女が言わないのを頼みに話し続けてきました。
厭なら、いっそはっきり言って下さい。襷 (たすき)を両肩に掛けるように、どっちつかずで苦しいのです」とお嘆きになりました。せっかちな若女房(御乳母子の侍従)がじれったくて、いたたまれなくなり、姫君のお側に寄って申し上げました。源氏の君は何かと気遣いしては、ふざけたり、また真面目そうにも語りかけなさいましたが、何の甲斐もありません。(全くこのように返事のない状態も辛いものです。きっと姫君のお慕いする方が他にあるに違いない)と、妬ましくなられまして、固く閉じてあった襖を開けて、姫君のおられる御帳の中に入ってしまわれました。命婦は、
「まぁ、いやだ。油断させておいて……」と言いながら、姫君を痛ましく思われましたが、素知らぬ顔をして、自分の部屋に行ってしまいました。若女房もいろいろ源氏の君の評判を聞いていましたので、源氏の君の振る舞いをお許し申し上げて、ただ姫君の御心を案じておりました。姫君は呆然として、ただ恥ずかしく、控え目にするより他には何も考えられずに怯えておりました。
源氏の君は(今のうちは、こういう様子は可愛いものよ。まだ男女のことに馴れない女性で、大切に育てられた訳だから……)とご覧になるものの、何か納得がいかず、姫君のご様子が何となくお気の毒なので、思わず溜息をつかれまして、何事もないまま、まだ夜の暗いうちに、そっと人目を忍んで宮邸を退出なさいました。
源氏の君は二条院にお帰りになり、臥しておられましても、(姫君のことは望み通りにならなくて残念だ……)などと思い続けなさいまして、姫君が高いご身分の方でありますことを心苦しく思われました。
そこへ、頭中将がおいでになりました。
「この上ない朝寝坊ですね。理由があるのでしょう」と申しますので、源氏の君は起き上がって、 「気楽な独り寝の床で気がゆるんだだけです。宮中に行ってこられたのですか」
「そうです。今退出してきたところです。朱雀院の行幸について、今日、楽人や舞人を決めると聞きましたので、父大臣にもお伝えしようと参りました。すぐ戻らねばなりません」
頭中将は忙しそうなので、「それではご一緒に宮中へ……」と言うことになり、源氏の君は御粥・強飯(おこわ)を取り寄せ、頭中将にもお勧めになりました。
お二人は一台の御車にお乗りになりました。
「やはり大層眠そうですね。私に隠し事があるのでしょう」と、頭中将はまだお疑いでございました。宮中では多くの事が決められる日なので、源氏の君は一日中、宮中でお過ごしになりました。
あの常陸の姫君に、せめてお手紙(後朝(きぬぎぬ)の文)をしなくてはお気の毒だとお思いになって、夕方になってようやくお遣わしになりました。雨が降り出し、今宵のお出かけは面倒なので、姫君の御邸にお泊まりになるなどは、少しも思えずにおられました。
姫君の御邸では、早朝に届くはずの後朝の手紙を待つ時刻も、とうに過ぎてしまいましたので、命婦は痛々しいことだと辛く思っておりました。当の姫君は心の中でただ恥ずかしいとだけお思いになって、今朝届くはずの後朝の手紙が夕暮れになってしまったけれど、むしろそれが慣習に外れたことだとさえご存じないようでした。源氏の君のお手紙には、
夕霧の はるる気色もまだ見ぬに いぶせさそふる宵の雨かな
(訳) 夕霧が晴れる気配もないように、貴女の打ち解けない御心が晴れないので
今夜の雨が辛いのです。
雨雲が晴れ間を待つように、心打ち解ける日がどんなにか待ち遠しいものです」とありました。源氏の君がおいでになる気配もないようですので、女房たちは胸のしめつけられる思いでおりました。
「やはり、お返事をなさいませ」とお勧めしても、姫君は大層思い悩んでいらっしゃいまして、お返事なさいませんので「夜が更けてしまいます」と、侍従がいつものようにお教えしました。
晴れぬ夜の 月待つ里を思いやれ 同じ心にながめせずとも
(訳)雨の晴れない夜に月を待つように、貴方のおいでをお待ちしている私の心を
思いやってください。私と同じ心で想っていらっしゃらなくても……
姫君は、年月が経って白く変色した紫の古い色紙にしっかりした文字で、少し昔風に各行の上下を等しく揃えてお書きになりました。
源氏の君は姫君のことを思いやって心落ち着きません。(このように想いの遂げられなかったことを悔しいと言うのだろうか。だからといって、あの時はどうしようもなかった……)等と思い続けておられました。それでも今後末長く、心細い姫君のお世話(後見)をしていこうと決心なさいましたのに、そのことをご存知ない姫君は、お通いのないことを大層嘆いていらっしゃいました。
夜になって、左大臣が宮中から御退出なさるのに誘われて、源氏の君もご一緒に左大臣邸においでになりました。行幸のことを皆、大層興味深くお思いになり、君達(きんだち)が集まって、各々が舞の練習などで忙しくお過ごしになり、ただ月日が過ぎていきました。管弦の音などもいつもより騒がしく、君達が競って、練習なさっておられました。大尺八(笛)などの大きな音を吹き鳴らし、太鼓なども高欄(こうらん・欄干)のところまで転がし寄せて、打ち鳴らしておられました。
源氏の君もお暇がないようで、特に恋しく思われる女性のところだけはお通いになりましたが、あの常陸の姫君へのお通いも無いまま、秋は暮れてしまいました。姫君はやはり源氏の君を頼りにしていましたが、その甲斐もなく時は流れてゆきました。
朱雀院の行幸が近づき、舞楽の予行演奏をしている頃、大輔命婦が参上いたしました。源氏の君は姫君を愛しく思い出され、「どんなご様子ですか」とお尋ねになりました。命婦は、
「全く、こんなにまで御心が離れてしまいますと、側で見ている私どもまで、姫君がお可哀想で……」など、今にも泣きそうな様子で申し上げました。源氏の君は命婦の手引きを台無しにしたことを申し訳なくお思いになって、命婦の御心まで思いやっておられました。
姫君がものも言わず、思い沈んでいらっしゃるご様子を想像すると、誠にいとおしくお思いになるのですが、
「今はお訪ねする暇がないく、仕方がないのです」と溜息をおつきになり、「男女の情の分からない姫君のご性格を少し懲らしめようと思うのです……」と微笑まれました。その様子が、大変若々しく美しいので、命婦もつい微笑んで(源氏の君は女性に恨まれるお年頃なのでしょう。思い通りにならないのも仕方のない)と思いました。
源氏の君は、あの藤壷の宮と縁続きの幼い姫君(紫上)を二条院にお迎えになりましてからは、その方を可愛がることに心を捕らわれて、六条の御息所にさえ、御心が離れてしまわれましたので、荒れ果てた御邸の常陸の姫君には、お気の毒と思う気持ちが遠のいてしまった訳ではないけれど、どうにも気が進まないのは、仕方のないことでございましょう。
姫君が恥ずかしがっておられるそのお顔を、特に見たいという気もなくて、時が過ぎていくのですが、源氏の君はまた思い直して(もしかしたら、思っているより美しい姫君かもしれない。あの日は真っ暗闇の手探りで、よくわからなかったので、いつの日かもっとしっかり見たいものだ。しかし灯火の光でははっきり見えないし、じっと見るのも少しきまりが悪い)とお思いになりました。
そこである日、皆がくつろいでいる宵の頃に、そっと御邸にお入りになって、格子戸の隙間からご覧になりました。けれども姫君のお姿が見えるはずもありません。御几帳(みきちょう)はひどく傷んでいましたが、年月が経っても置場所を変えずにいましたので乱れてはおりません。御几帳の陰からでは姫君のお姿は良く見えませんでしたが、女房たちが四・五人控えているのが見えました。さらに、お膳は秘色(青磁色)の唐土(もろこし) のものですが、体裁の悪い上にこれという品もなく、お粗末なものを姫君の御前におだしして、下がったものを女房たちが食べているようでした。隅の間には、大層寒そうな女房たちが、ひどく汚れた白い衣の上に、汚なげな褶 引き(上裳)を腰の辺りに結びつけた見苦しい姿でおりました。櫛を垂れ落ちそうに髪に挿している様子は(内侍所(ないしどころ)の辺りに、こんな古い髪型の女性がいた)等と可笑しく思われました。
「悲しいこと。なんと寒い年でしょう。長生きするとこのように辛い世にも遭うものなのです」と泣く老女房もおりました。
「故常陸宮のご存命の頃にも辛いと思いましたが、今この様に頼る者がない状態でもなんとか生きていられるようです」と、寒さに震えている者もおりました。
源氏の君は女房たちがさまざまに嘆き合っているのをお聞きになって、いたたまれないお気持で、その場を立ち去り、たった今来られた振りをして、戸を叩きなさいました。女房が灯火を明るくして、格子戸を開いて、源氏の君を中にお入れ申し上げました。例の侍従は斎院にもお仕えしている若女房で、その頃は御邸におりませんでしたので、姫君のお側の女房たちはますますみすぼらしく、田舎風の者ばかりで、源氏の君には見慣れぬ心地がなさいました。
(ある雪の降る日に……)
雪が盛んに激しく降っていました。空は荒れ模様で風が吹き荒れ、灯火が消えてしまいました。しかしそれをつける人もいません。源氏の君は昔、物の怪に襲われた時のことを思い出されて、御邸の荒れ果てた様子はあれにも劣らないようですが、ここは部屋が狭く人の気配が少し多いので、多少、心が慰められるように思われ、なんとも目の覚めやすい夜でございました。
そんな雪の夜はしみじみ趣もあり心惹かれるのに、姫君は全く引っ込みがちで、無粋で見栄えのしないご様子なので、源氏の君は残念に思っておりました。
ようやく夜が明ける気配なので、源氏の君はご自分で格子戸をお上げになって、庭先の植込みの雪をご覧になりました。人が踏んだ跡もなく、はるばる見渡す限り荒れ果てて、誠にもの寂しげなので、姫君を見捨てて帰るのもお気の毒になり、
「美しい雪景色をご覧なさい。いつまでも心打ち解けないのは辛いものです」と恨み言を申されました。まだ薄暗いですけれど、雪の光で源氏の君のお姿がますます美しく若々しく見えますので、老女房たちが、嬉しそうに拝見しておりました。源氏の君は、
「早くお出でなさいませ。御心の素直なのこそ可愛く見えるのですから……」とお勧めいたしますと、姫もさすがに逆らえないご性格で、あれこれ身繕いして、にじり出ていらっしゃいました。
源氏の君は、姫君を見ない振りをして、外のほうを見ていらっしゃいましたが(姫君のお姿が美しいならば嬉しい……)とお思いになって、ただならぬ横目遣いでご覧になりました。
姫君のお姿は、まず座高が高く胴長に見えますので、やはりそうかと胸がつぶれる思いがなさいました。次の欠点は、鼻が目に止まりました。しかも、普賢菩薩(ふげんぼさつ)の乗り物(象)の鼻に似ているのです。呆れるほど高く長く伸びて、先のほうが少し垂れて紅く色づいているのは、特に情けない様子でした。お顔の色は雪も恥じ入るほど白く、少し青みを帯びていまして、額つきは、広々としているのに、それでもまだ下の方に長く見える顔だちは、おそらく不気味なほど長い顔なのでありましょう。身体が痩せていて、肩の辺りは痛々しいほど骨張っていて、お召物の上にまで感じられるほどでした。頭髪や黒髪の垂れ具合は可愛らしく、源氏の君が素晴らしいとお慕い申し上げる女性にも決して劣らぬほどで、袿 (うちぎ)の裾(すそ)にたまって後ろに引きずっているところは、一尺ほどもあると思われました。お召物まで言い立てるのも慎みがないようですけれど、聴し色(薄紅色)の表面が古びて白く色変わりしている単衣(ひとえ)に、もとの色がわからぬほど汚れて黒くなった袿 を重ねて、黒貂(くろてん)の皮衣(貂の皮の男衣)の大層芳香を炊きしめたものを着ていらっしゃいました。昔風の由緒ありげな御召し物ですけれど、やはり若い姫君のお着物としては不似合いで、(大袈裟な感じだけれど、もし、この皮衣がなければ寒いことだろう……)と、少しお気の毒にお思いになりました。
源氏の君は何も仰ることができずに、姫君だけでなくご自分までもが、口を閉ざしてしまったような気持がなさいました。全てが分かってしまったのだから、もうこれでいつもの無言の対面が終わるかと、あれこれ語りかけなさいましたが、姫君は大層恥ずかしそうに、口もとを袖で覆っていらっしゃいました。その様子が田舎風で古めかしく、それでも微笑んでいらっしゃる様子は、何となく卑しく情けない感じでございました。
源氏の君は心苦しく、しみじみ気の毒にお思いになり、大層急いでお部屋を出てしまわれました。「頼りになさる方(後見人)もないようですから、初めて契りを結んだこの私には、疎遠な態度をなさらないでください。いつまでも心許さないご様子が辛いのです」と、それを口実になさって、
朝日さす軒のたるひは解けながら などかつららのむすぼほるらむ
(訳)朝日のさす軒のつららは解けていますのに、
なぜ貴方の心の氷が解けないのでしょう
源氏の君がそう仰いましたが、姫君はただ「む、むっ、」とお笑いになるだけでした。口が重い様子も、源氏の君には更に心苦しく、早々に退散してしまわれました。
御車を寄せた中門がひどくゆがんで崩れかかり、松の雪だけが暖かそうに積もった風景は、山里のようで、しみじみ趣深い様子でございました。源氏の君は、雨夜の品定めの時、ある人が言ったように「胸がつまりそうに気の毒で可愛らしい人を、荒れ果てた隠れ家に住まわせて、恋しく想いたいものだ」とは思うものの(このような心打ちとけぬ無粋な姫ならば、自分以外の人で誰か、我慢してお世話(後見)する者がいるだろうか。自分がこうして通い馴れたのは、姫君の未来を心配した故常陸宮の霊魂がお導きになったのだろう)とお思いになりました。
橘の木が雪に埋もれているので、随身(護衛の家来)をお呼びになって、雪を払わせなさいました。
御車が出るはずの門はまだ閉まっていましたので、鍵を預かっている人を捜しますと、大層衰弱した老人が出てきました。娘なのか孫なのか、どちらとも言えない年頃の女性も出てきまして、着物は雪に映えてひどく汚れが目立ち、大層寒そうな様子で、小さな器に火を少し入れて、袖で包むように持っていました。老人には重い戸が開けられないので、その女性が側に寄って、扉を引いて手助けする様子は何とも頼りなく、お供の人が近寄って扉を開けました。
ふりにける頭の雪を見る人も 劣らず濡らす朝の袖かな
(訳) 老人の白髪にふる雪を見ると、自分も老人に劣らず朝の袖を涙で濡らして
しまいます。
幼い者は纏(まと)う着物さえもなく……」と、源氏の君は古詩を吟じなさいまして、鼻の先が赤く寒そうだった先ほどの姫君を思い出し苦笑されました。(頭中将にこの姫君のご容姿を見せたら、何に例えて言うだろうか。いつもここに探りにくるのだから、今に見付けられてしまうだろう。困ったことだ)とお思いになりました。
姫君が世間並みのご容貌ならば、いつものように思い棄ててもしまえようが、はっきりご覧になってからは、かえって気の毒にお思いになって、常に真面目な気持でお訪ねになりました。黒貂の皮衣でなく、絹や綾や綿などのお召物を、さらに老女房たちの着る衣類や、あの老人のためにまで、身分の上下すべての者に思いやりなさって、いろいろとお贈りなさいました。源氏の君は経済上の後見役として、このような平素の暮らしのお力添えをも、お世話しようとお決めになりました。
(常陸宮の姫君からのお手紙と贈り物が……)
今年も暮れてしまいました。源氏の君が内裏(だいり)の宿直所(とのいどころ)におられますと、大輔命婦(たいふのみょうぶ)が参りました。
命婦は「変な話ですが、申し上げないのも素直でないようで……、いろいろ思い迷いまして……」と申し上げかねていますので、源氏の君は、
「どんなことかね、私には遠慮することはありません」と仰いました。
「私自身のお願い事なら、畏れ多くても、まず申し上げますが、これは誠に申し上げ難い事なのです。あの常陸の姫君からのお手紙なのですが……」と取り出しますと、
「それなら、なおさら隠さないでお見せなさい」と手にお取りになりましたので、命婦は胸がつぶれる思いがしました。
姫君のお手紙は、香の深く染み込んだ厚い陸奥国紙に、大層よく書き上げてありました。
からころも 君が心の辛ければ 袂 (たもと)はかくぞそぼちつつのみ
(訳)貴方の御心がつれないので、私の袂はこのように濡れております。
源氏の君は、歌の意図がよく分からず、首をかしげておられますと、命婦は包み布の上に、重く古めかしい衣装箱を置いて、源氏の君のほうに押し出しました。
「どうして、はらはらしないでいられましょうか。元旦のお召物として姫君が特別にお心遣いなさいましたもので、そっけなくお返しもできません。かといって、私の手許に留めておくのも、姫君の御心に違えることになりますので、やはり源氏の君にお目にかけましょう」と申し上げますと、源氏の君は「手許にしまい込まれても困ります。涙に濡れた袂を乾かしてくれる人もない私にとっては、大変嬉しい姫君のお心遣いです」と仰って、
「それにしても、情けない歌い振りです。けれどこれこそ姫君の力の限りと言うところなのでしょう。侍従が手直しするはずでしょうに、さらに、その筆を教える先生もいないようですね」と情けなくお思いになりました。しかし姫君が心を尽くしてお詠いになった様子をお考えになり、
「本当に畏れ多いお歌というのは、これをいうかもしれない」と微笑みながらご覧になりました。
贈り物は、当時流行の薄紅色で、許せないような艶のない古い直衣でございました。裏も表も等しく色の濃いもので、全くありふれた、どうにもならないような代物でした。源氏の君は呆れ果てて、そのお手紙の端に何か書き添えなさいましたので、命婦が横から覗き込みますと、
懐かしき色ともなしに何にこの 末摘花(すえつむはな・紅花)を袖に触れけむ
(訳)親しみのもてる色でもないのに、どうしてこの末摘花(紅花)の袖に触れるように、
べにばな(紅い鼻)の姫君と契りを結んでしまったのだろうか。
色の濃いはな(花・鼻)だったなぁ」と書き汚しておられました。命婦は、源氏の君がはなにこだわりなさいますので何故かと考え、時折、月の光などで見える姫君のお顔が思い合わされ、姫君をお気の毒に思いながらも、大層可笑しく思いました。命婦は、
紅のひとはな衣 薄くとも ひたすらくたす名をしたてずは
(訳) 紅の色の薄い衣のように、貴方の愛情が薄くとも、姫の面目を失うような事は
なさらないでください。
なんとお気の毒なことでございましょう」と独り言を言いました。
源氏の君は(特に優れた歌ではないけれど、姫君も、せめて命婦くらいの世間並みの歌でも詠えたらよいのに……)とつくづく残念にお思いになりました。
そこへ人々が参上してまいりましたので、源氏の君は、
「身分の高い姫君ですし、その名を傷つけることはさすがにお痛わしいことですので、この贈り物は隠しておきましょう」と姫君に心遣いなさいました。
命婦もなぜお目にかけてしまったのかと、大層恥ずかしくなりましたので、そっと退出してしまいました。
その次の日に、命婦が宮中の台盤所 (だいばんどころ・女房の詰所)にお仕えしておりますと、源氏の君がお覗きになり「ほら、昨日のお返事です」と仰いました。女房たちは何かと知りたがりました。源氏の君は、 「ただ、梅の花のような……三笠の山の乙女を棄てて……」と詠いながら、部屋を出てしまわれましたので、命婦は大変面白いと思いました。事情を知らない女房たちが、
「なぜ、独り笑いを……」と聞き咎めますので、
「なんでもないのです。この寒い霜の朝に、掻練(柔らかい紅色の絹)好きの人の赤いはなの色合いが、見えてしまったからでしょう。源氏の君のお書きになりました句の大層お気の毒なこと」と答えました。
命婦が源氏の君のお返事を姫君に差し上げますと、常陸宮邸では女房たちが集まってお誉め申しておりました。
逢はぬ夜を へだつる中の衣手に重ねていとど 見もし見よとや
(訳)お逢いしない夜が重なって、二人をへだてる衣を重ねて、
さらに心隔てを厚くするとおっしゃるのですか
白い紙に書き棄てなさいましたのが、かえって趣深いものでした。
晦日(つごもり・大晦日)の日の夕方、姫君から贈られた衣装箱に御料として、御着物一揃いと葡萄染(えびぞめ・薄紫色)の織物の着物や山吹色の着物など、色どり美しく見えるものを納めて、姫君に賜りました。
先日の贈り物の色合いを、源氏の君は嫌いとお思いになったのだろうと、命婦は思い当たりましたが、
「あの着物だって、紅色の重々しいものだったので、それほど見劣りしますまい。姫君の差し上げたお歌だってしっかりした詠み振りでしたのに、御返歌はただ風情のみで……」等と、老女房たちは口々に言っておりました。姫君は大層苦心して詠み出した御歌でしたので、物に書き付けて大切に書き残しておりました。
正月朔日(ついたち)から数日が過ぎて、今年は男踏歌(とうか・足を踏みならして宮中を歌って歩く行事)が催されますので、いつものように君達(きんだち)はその練習に大騒ぎをしておりました。そんな頃に源氏の君は、あの寂しい宮邸の姫君のことをお気の毒に思い出しなさって、七日の白馬節会の後、宮中の宿直所に泊まったようにして、夜が更けてから宮邸にお出かけになりました。
宮邸は前よりも活気づいた気配がしていました。姫君も少しおしとやかな感じを見につけていらっしゃいました。源氏の君は(年も改まり、今までと変わって見違えるご様子ならよいのに……)と心配しておられました。
日が昇るころ、源氏の君はわざとためらってご寝所を出られました。東の妻戸を開きますと、向かい側の廊下が屋根もないので、陽射しが部屋の中まで差し込んでおりました。雪が少し降り積もった後の光なので、大層鮮やかに見えました。源氏の君が直衣などお召しになりますと、姫君が出てきて、傍らに臥しておられました。その黒髪がこぼれている様子が実に素晴らしくございました。(以前よりご容姿が、ずっと良くなられたなら嬉しいのだが……)とお思いになって、源氏の君は格子戸を引き上げなさいました。以前、紅い鼻を見てお気の毒にお思いになったのに懲りて、格子を全部お上げにならずに、脇息(ひじおき)を引き寄せ、御鬢の乱れをお直しになりました。ひどく古びた鏡台の唐櫛笥や髪結箱などの中に、男用の御具が整えてあるので、気がきいているとご覧になりました。
姫君のお召物が今日は世間並みと見えますのは、先日の源氏の君が贈られた衣装箱の着物をそのままお召しになっていたからでした。源氏の君はそれと気付かずに、素晴らしい模様の表着ばかりで、前より、ずっと良くなられたとお思いになりました。
「せめて今年こそ、お声を聞かせて下さい。待ちかねる鴬(うぐいす) の声はさておき、貴女のご様子が改まるのが見たいのです」と源氏の君が仰いますと、
「百千鳥(ももちどり)のさえずる春には……」と、姫君はかろうじて震える声でお応えになりました。
「夢ではないかと思われます」と、源氏の君は古歌を吟じながら、御退出なさいますのを、姫君は見送ろうと出ていらっしゃいましたが、その口もとを覆っている横顔から、やはりべにばな(紅鼻)が大層色濃く突き出ていました。源氏の君は(なんと見苦しいものだ……)と哀れにお思いになりました。
(二条院の若紫の姫君は……)
二条院に源氏の君がお帰りになりますと、若紫の姫君が実に愛らしい幼い姿で(紅とはこんなに心惹かれる色か……)と思えるほど美しい無紋の桜襲(さくらがさね) の細長を、しなやかに着こなして、誠に可愛らしいご様子でございました。古風な祖父母のお躾の名残で、お歯黒もまだなさっていなかったのを、この春からなさいまして、眉もくっきりしていますので、愛らしく清らかな感じがいたしました。
源氏の君は(自らの意志とはいえ、どうしてこのように辛い女性・べにばな(末摘花)と関わりをしているのだろう。こんなにもいじらしい人(若紫)と一緒に睦むこともしないで……)とお思いになりながら、いつものように、幼い姫君とご一緒に雛遊びをなさいました。
姫君は絵などを描いて、色づけなどなさいました。いろいろと面白く、興味のままに描き散らしなさいました。源氏の君も描き添えたりなさいました。髪の長い女をお描きになり、鼻に紅をつけてみますと、絵に描いた鼻でさえ見るのも嫌な気がなさいました。源氏の君は鏡台に写ったご自分のお姿が、誠に清らかで美しいのをご覧になって、ご自分の鼻の先に紅粉(べにこ・紅花からとった染料)をつけてみました。こんなにも美しいお顔でも、紅い所が混じるようなのは大変見苦しいものでした。姫君がこれを見て、大層お笑いになりました。
「私がこんな不器量になってしまったら、どうでしょう……」と仰いますと、姫君は、
「嫌でございます」と、その紅粉が染みつきはしないかと心配しておりました。源氏の君は拭き取る素振りをしながら、
「全く白くなりません。つまらない悪戯(いたずら)をしたものだ。内裏にどうご説明しましょう」と、いかにも真面目顔で仰いましたので、姫君は可哀想になられて、側に寄って紅をお拭きになりました。
源氏の君は、
「平貞文(たいらのさだふみ) のように、この上にさらに墨などを塗らないでください。紅い色ならまだ我慢もできましょうが……」と、戯れなさいますご様子は、まことに仲の良い兄妹のように見えました。
春の日が大層のどかで、早くも霞がかかった木々の梢が、芽吹くのが待ち遠しいなかにも、梅は蕾 (つぼみ)が膨らみ微笑んでいるようでした。特に早く咲く階隠 (はしがくれ・寝殿正面の階段を覆う屋根)の側の紅梅は、もう蕾が色づいておりました。
紅のはなぞあやなくうとまるる 梅の立ち枝はなつかしけれど
(訳)あの紅のはな(鼻)は訳もなく嫌な気がします。この紅梅の枝ぶりは、
親しみがもてるのに……
どうにもならないことですのに、源氏の君は思わず溜息をつかれました。
このような姫君の行く末はどうなるのでしょう。
( 終 )
源氏物語ー末摘花(第六帖)
平成十二年睦月 WAKOGENJI(訳・絵)
目次に戻る