斉院(朝顔の宮)は、父宮の御服喪のために退下なさいました。源氏の大臣(おとど)は 例によって 一度好きになった人を忘れられないご性癖で、お見舞いなどを
大層頻繁に申し上げなさいました。
宮はこれを煩わしいこととお思いになり、御返事さえも打ち解けてなさいません。大臣は、
「とても残念なこと……」と、ただ思い続けておられました。
長月になり、桃園の宮にお移りになりました。そこには女五の宮(故式部卿の妹=源氏の叔母)がおられますので、その御見舞いを口実に、ご訪問なさいました。故桐壺院がこの内親王達を特に大切に思い申し上げておられましたので、今も親しく、次々に、手紙のやりとりなどをなさっているようでした。
同じ寝殿を西と東の二つに分けて、お住まいでございました。色部卿の宮が亡くなられて どれほども経たないのに、御邸はすっかり荒れた感じがして、もの悲しくひっそりとしていました。
源氏の大臣は、女五の宮とご対面なさいまして、お話など申し上げなさいました。大層お年を召された様子で、お咳がちでおいでになります。この宮の姉上でおられます 故大殿の宮(葵の母君)は、理想的で年をとりにくい若々しいご様子ですのに、その方とは違って、御声もしわがれて無骨な感じがいたします。けれども この宮は然るべき 内親王らしい風格がございました。
「院の上(桐壺院)がお亡くなりになりまして後、総てのことに心細く思っておりましたのに、年の経つまま、ひどく涙を流しながら過ごしておりましたところ、この式部卿さえも、私を捨てて先立たれました。ますます生きているのかどうかも分からない状態で、この世に生きながらえておりましたところ、このように源氏の大臣が お見舞いにお立ち寄り下さいましたとは、辛さを忘れてしまいそうな程に、嬉しいことでございます」と申しなさいました。
「畏れ多くも、年をとってしまわれた……」とは思いますけれど、畏まった様子で、
「院が亡くなられて後は、さまざまにつけて、御在位当時のようではございません。思いがけない罪(須磨流離)に当たりまして、知らない世界に放浪して暮らしておりましたが、今は、たまたま朝廷の地位を得て、また暇もなく忙しくしております。長い年月 参上して 昔の物語などを申し上げ、承ることをしなかったことが気がかりで、案じ続けておりました」などと申しなさいますと、
「誠に、驚くほどのこと……どれをとっても、この定めなき世に、昔と同じ様に過ごすのは難しく、命の長さについて、恨めしく思われることが多くございますが、このように政界に立ち返りなさいました御喜びにつけても、在りし年頃を 途中までしか拝見しないで死んでしまっていたのなら、きっと悔しい思いをしただろう……と思われます」と、声を震わせてお泣きになって、
「本当に美しく成人なさいました。幼かった頃、初めてお逢いしました時に、『世にこのように美しい光がお生まれになったとは……』と、驚かずにいられませんでした。それから 時々お見受けする度に、不吉なほど美しい…と思われ、今生の帝にこそ、とてもよく似ていらっしゃる……と、人々がお噂申し上げるのを、『それにしても、帝は見劣りなさるでしょう……』と推察しておりました」等と、長々お話しなさいますので、
「特に このように差し向かいで、人を誉めたりしないものだが……」と、可笑しくお思いになり、
「賤(いや)しい者として、酷く心が衰弱しておりました年月の後には、すっかり衰えてしまいましたのに、今上の帝の御容貌を、昔の世にも並ぶ人もなく有り得ないほどと拝見しておられたとは、解しかねるご推察でございます……」と申しなさいました。
「時々お逢いできれば、残り少ない命も延びることでしょう。今日は老いも忘れ、憂き世の嘆きも、全て消え去ってしまった感じがいたします」と、またお泣きになりました。
「三の宮(葵の母君)が羨ましく……然るべき御縁ができて、貴方様と親しく逢いできることを、羨ましく思います。亡くなられた父宮(式部卿)も、そのように後悔なさる折々がございました……」と仰るので、大臣の耳に留まり、
「そのように(朝顔の宮の婿として)親しくお仕え申し慣れて頂けたら、今もご満足でございましたでしょうに、皆様は私を遠ざけなさいまして……」と恨めしそうに 思わせぶりな態度をなさいました。
朝顔の宮がおられる寝殿の御庭の方を見やりなさいますと、枯れた前栽(植え込み)の風情が格別に見渡されて、宮がのんびりと眺めていらっしゃるご様子やご器量が、とても慕わしくしみじみと思われますので、我慢することができずに、
「このようにお訪ねしたついでに、宮に声をかけ過ごしてしまいますことは、誠意がないようですので、あちら(朝顔の宮)にもお見舞いを申し上げなければなりません」と仰って、そのまま簀の子からお渡りになりました。
薄暗くなって来た頃ですが、鈍色の御簾や黒い御几帳の透影がしみじみした感じで、宮のおられる部屋から吹く風(香の薫り)は優美に吹き通し、雰囲気は誠に素晴らしくございました。簀の子にてお待たせするのはお気の毒……と、南の廂にお通し申し上げ、まず宣旨(宮づきの女房)に対面して、御挨拶などお伝え申しました。
「この歳になっても、御簾の前では若々しい気持ちがいたします。長い年月 想いを寄せ続けた労が数えられますので、今は、御簾の内外への出入りもお許し頂けるかと、頼みにしておりますのに……」と、物足りなくお思いでございました。宮からは、
「今までのことは、皆、夢とみなし、今こそ目覚めて何と儚いものか…と、思い決め難くおりますので、労などについては 静かにさせて頂きたく存じます……」と申し上げなさいました。
「なるほど無情な世である……」と、些細なことにつけても 思い続けておいでになりました。
「誰にも知られないで、神の許しを待っていた間に、長い年月、辛い世を過ごしてきた事よ。今は何の戒めにかこつけなさろうとするのでしょう。なべて世の中に煩わしい事がありました後、様々に辛い思いがございました。せめてその一部でさえ……」と、強いて申しなさいました。源氏の御心遣いなども、昔よりも今こそ 優美さが増しておられました。けれども宮は、大層お年を召され、ご身分には相応しくない…と、お考えのようでございました。
なべて世の あはればかりをとふからに ちかひしことを神や諫めむ
(訳)総じて 世の辛い事をお見舞いするだけでも、
誓ったことに背くと、神が諫めることでしょう。
とありますので、
「あぁ、情けないことだ……その世の罪は、皆、科戸(しなど)の神の風によって、すべて吹き払って綺麗にして貰ったのに……」と仰る愛嬌あるご様子が、この上なく素晴らしくございました。
「恋をしないという禊(みそぎ)を、神はどのようにお考えなのでしょう」など、つまらぬ冗談を申し上げるのも、真面目に聞く者にはとても辛いことでしょう。結婚をなさらないお気持ちは、年月がたっても変わることなく、奥深くに引き籠もり お返事もなさらないので、お側の女房達も心配しておりました。
「ようやく男女の世を分かる年頃になられましたのに……」などと深くお嘆きになり、席を立たれ、
「年をとると、恥を感じなくなるものですね。この世にないほどやつれた私の姿に、せめて今こそ 打ち解けた姿を見せて、もてなして下さってもよいのに……」と仰って、退出なさいました。
衣の残り香は所狭いほどに残っていて、いつものように女房達は皆、お噂に誉め申し上げておりました。ただでさえ 空は風情ある頃なので、木の葉が風に騒ぐ音にさえも、過ぎ去った悲しみをしみじみ思い返して、その折々の慶びや悲しみにつけ、女房から深いと見られなさった御気持のほどを思い出しておられました。
御心が重く落ち込んだ気分で退出なさいまして、二条院に帰られますと、以前より増して、寝覚めがちに思い続けなさいました。朝早く御格子を開けさせなさいまして、朝霧を眺めておいでになりますと、枯れた花々の中に、朝顔があちこちに這いまつわり、あるかなきかに咲き残っておりました。色艶が特に変わっているものを手折らせなさいまして、朝顔の宮にお贈りになりました。
貴女のきっぱりとした御あしらいに、体裁の悪い思いがしていた私の後ろ姿を、どのようにご覧になったのでしょうか。腹立たしくございますけれど、
見しをりの露忘られぬあさがほの 花のさかりは過ぎやしぬらむ
(訳)昔 お逢いした貴女が忘れられません。
その朝顔の花は、盛りを過ぎてしまったのでしょうか・・・
長い年月 想いを募らせてきたのに、あわれ(ヽヽヽ)…とくらい、少しでもお分かりになるでしょうか」とありました。大人びた穏やかな御文に見る源氏のお気持ちに、女房たちも、
「こちらの気持ちがはっきりし分からないのも、情のない女のようで……」と思われ、御硯を整えてお返事なさるように 促し申し上げるので、
秋はてて 霧の籬(まがき)にむすぼほれ あるかなきかにうつるあさがほ
(訳)秋が終わって、霧のかかった垣根に萎んで
今にも枯れそうになった朝顔の花のような私でございます・・・
相応しい喩えに、涙が溢れ……」とだけありますのは、何の素晴らしいところもないけれど、どういう意味なのだろうか……。下に置きがたく、しばらく手にとって ご覧になっているようでした。青鈍色の紙に、しなやかな墨跡は、大層趣深く見えるようでした。
人の身分や筆跡などに取り繕われて、その時には無難に見えていたことも、その人に相応しいようにお伝えするのは、不快に思われることもあるようだから、それらしく適当に書き紛らわすことで、不安なことも多くなってしまいました。今更若々しい手紙が相応しくないとお思いになるけれど、やはりこのように、昔から離れてしまうでもない御仲のまま、不本意ながら 時が過ぎてしまったことを思いますと、諦めることができずに、今また昔に返ったように、真剣に手紙をお書きになったのでございました。
二条院の東の対に引き籠もって、宣旨(せじ)(朝顔づきの女房)をお呼びになり ご相談をなさいました。朝顔の姫君に伺候する女房の中でも、身分の低い男性の誘いでさえも乗りやすい者は、間違いを起こしそうな程に 源氏の大臣をお誉め申し上げますけれど、宮には、その昔でさえ、特に想いを寄せてはいなかったのですから、今はまして、ご自身が、誰かに想いを寄せるには相応しくない年齢に思えますので、
「ささやかな草や木についての御手紙に対し、間をおかずに すぐお返事するのも、軽々しいと受け取られるだろうか……」と、世間の評判を気になさいまして、源氏の大臣と打ち解けるご様子もないので、昔と同じ様子に、世間の人とは違って珍しく、妬ましい方だと、思い申し上げなさいました。
世間の噂が漏れ聞こえてきて、
「源氏の大臣は、前斉院に熱心にお便り申し上げておられますのに、女五の宮なども良い…とお思いのようです。このお二人なら、相応しい間柄でございましょう……」などと言っているのを、対の上(紫上)がお聞きになりまして、
「そうあっても、私に隠すことはなさらないでしょう……」とお思いでしたけれど、にわかに、源氏の君を目に留めてご覧になりますと、そのご様子はいつものようでなく まるで魂が抜けたようですので、 何とも情けなくなられ、
「本気で朝顔の宮を想っておられることを、何気なく 戯れに仰りたいのでしょう……。同じ皇族の血筋でおられますが、世間の評判が格別で、昔から重々しいと評判の方でしたので……御心などが移ってしまったら、この私は とても体裁の悪いことになるでしょう。長年のご寵愛などは、立ち並ぶ方もないくらい大切にして頂いておりましたのに、それにずっと慣れてきた今になって 外の女性に圧倒されるのは……」等と、人知れず 嘆かずにいられませんでした。
手紙もない 名残りもない様子ではお扱いにならないとしても、大層頼りない身分(正室でない)のまま 慣れ親しんできた長年の御仲も、これからは 軽々しいお扱いになるのだろうか……」などと、さまざまに思い乱れなさいました。
紫上は「それほど深刻にお想いでないなら、憎くはない…」とお考えでしたけれども、この度は「本当に辛い……」とお思いになりました。けれども、一切 表情にもお出しにならず じっと耐えておられたのでございました。
源氏の君は 端近くでぼんやり物思いに耽りがちで、内裏にお泊まりになることが多くなりました。仕事をするかのように、御文をお書きになるようで、紫上は、
「なるほど……世間の噂は本当のようだ。せめて少しでも仰って下さればよいのに……」と、源氏の君をお恨み申しておいでになりました。
夕方、藤壺入道の服喪のため、神事なども中止となり 物寂しく、所在ないと思うあまりに、女五の宮のところに、いつものご挨拶においでになりました。雪が少しちらついて風情のある黄昏時に、親しみやすい着慣れたお召物に ますます香を焚きしめ、念入りに化粧をしてお過ごしになりましたので、気弱な女房は心動かさないでいられましょうか。
源氏の君は、紫上にご挨拶を申し上げなさるついでに、
「女五の宮が病んでおられるようなので、お見舞いに行ってくる……」と、片膝をついたまま 振り向きもなさらずに、若君(明石の姫君・紫上の元に引き取られている)をあやして、心を紛らわしておられました。その横顔がただならぬ様子なので、
「不思議とご機嫌の悪いこの頃でございますのね。私には罪がありませんのに……。塩焼きの衣のように、あまり目慣れてしまうほどに、目立たないとお思いなのかと、わざと外出などして途絶えを置きましたのに、いかがお思いなのでしょう……」と申し上げなさいますと、
「慣れてゆくのは、厭なことが多いものですね」とだけ仰いました。背を向けて臥していらっしゃる紫上を見捨てて 出かけてゆくのも 気が進まないけれど、宮に手紙を出してしまっていたので、取りやめることもできずに、お出かけになりました。
「夫婦間には このような事もあるというのに、何と長い間 信じ切って過ごしてきたことでしょう……」等と思い続けながら、紫上は臥せっておいでになりました。鈍色の喪服をお召しでしたけれど、色合いや重ね色が大層美しく、雪の光に大層優美な君のお姿をご覧になって、
「本当に……心がますます離れてしまわれたら、悲しいこと……」と、堪えきれない気持でいらっしゃいました。
御前駆などを目立たぬようにして、
「内裏より他の外出は、億劫な年齢になってしまいました。桃園の宮(女五の宮)が心細い様子で暮らしておられるようだ。式部卿の宮(女五の宮の兄)に、長い年月 お任せ申し上げておりましたが、
『これからは頼む……』などと仰るのも当然なほど、お気の毒なご様子なので……」などと、女房たちに言い訳をなさいましたけれど、
「さぁ、どうでしょう。好色なお心がいつまでもお若いままであるのは、源氏の大臣の欠点のようです。何か軽々しいことが起こるに違いない……」などと、呟き合っておりました。
宮邸の北面(きたおもて)にある 人の出入りの多い御門からお入りになるのは軽々しいようなので、西にある立派な御門から、供人を入れさせなさいました。宮の御方にお伝え申し上げますと、
「まさか今、お渡りにはなるまい……」と思っておられたので、驚いて門を開けさせなさいました。御門番が寒そうな様子で慌てて出てきて、急には開けることができません。他に門番の男はいないようです。ゴトゴトと引いて、
「錠がひどく錆びていて、開かない……」と嘆いているのを、源氏の大臣は御車の中で しみじみとお聞きになりました。
昨日今日のこととお思いになっている間に、早や三年にもなっていました。
「このような無情な世を見ながら、かりそめの宿を思い捨てもできず、木や草の花に心ときめかすとは……」と思い知らされ、口ずさみに、
いつのまに 蓬(よもぎ)がもととむすぼほれ 雪ふる里と荒れし垣根ぞ
(訳)いつの間に、この邸には蓬が生い茂り、
雪ふる里と荒れてしまいました。 この垣根も……
ややしばらくして、門をこじ開け、中にお入りになりました。
宮の御方にて、いつものようにお逢いになり、昔の事などをとりとめなく話し続けなさいましたが、特に耳新しいこともなく、眠いので、宮はあくびをなさいまして、
「宵のうちから眠くなりましたので、もうお話し申し上げることができません……」と仰り、間もなく鼾(いびき)とかいう聞いたことのない音がするので、大臣はこれ幸い…と 部屋を退出しようとされますと、又、大層年老いた者が咳払いをしながら、近寄ってまいりました。
「お恐れながら、私のことをお聞きだろうと頼りにしておりましたのに、生きている者として 数に入れて下さらないようで、辛うございます。院の上(桐壺)は私を「お婆さま」とお笑いになっておられたものです……」などと名乗りでたので、ようやく思い出されました。昔「源の内侍のすけ」と言った人(紅葉賀の巻)で、今は尼となり、この宮の弟子として修業している と聞いていましたが、今まで長生きとは 訊ね知らなかったので、驚いて 興ざめになってしまいました。
「あの当時のことは、全て昔話になってゆきますが、遙か昔を思い出しますと心細くなります。けれども、何とも嬉しい源氏の御声でございますね。『親もなく伏せっている旅人 』と思って、慈しんで下さいませ」と、物に寄りかかって座る様子に、ますます昔が思い出されます。特に大層すぼむ口つきや声に老いが感じれ、さすがに舌足らずの様子で色っぽい態度をするので、いい年をして艶めかしい……と見えました。言い交わるうちに、
「いつの間に年をとり……」などと言い寄ってくるのは、こちらが顔を背けたくなる程です。
「今はすっかり年老いたようだ……」等と微笑まれますが、またこれも痛ましい事でございました。
この人の女盛りの頃に、ご寵愛を競い合っていた女御・更衣も、ある方は亡くなり、またある方は見る甲斐なく 儚いこの世に流離いなさるようです。入道の宮(藤壺中宮)などの御寿命の短さよ……何ということだろう……ただ虚しく思われる世の中で、年の程から言っても 寿命の残りが少なそうで、心構えなども頼りなげに見えた人が、生き残って、のどかに勤行をして過ごしているのは、やはり『無情の定めなき世』ということなのだろう……」とお思いになり、何となくしみじみしたご様子でおられますのを、心ときめくことと誤解して、心若やいでいる者もおりました。
年ふれど このちぎりこそ忘られね 親の親とかいひし一言
(訳)年を経っても、この契りこそは忘れられないことです。
親と親とか仰った一言がありますもの……
と申し上げますと、大臣には疎ましく思えて、
身をかへて後も待ち見よ この世にて親を忘るる例(ためし)ありやと
(訳)来世にて生まれ変わった後まで 待ってご覧なさい。
この世で子が親を忘れる例があるかどうか……
頼もしいご縁ですね。いずれゆっくりお話申し上げましょう……」と、退室なさいました。
あの老いらくの思わせぶりな仕草も、良くないものの例として世間にはある…と聞いたことがある」等と思い出して、可笑しく思われました
西面(にしおもて)には御格子が下ろしてありますが、嫌という表情をするのもいかがなものかと、一間二間は下ろしてありません。月が差し出して、うっすらと積もっている雪の光に映え合って、かえって趣のある夜の風情でした。
今宵は大層真面目に訴えなさいまして、
「せめて一言、人伝えでなく『憎い……』とでも仰って下されば、貴女への想いを絶つ きっかけに致しましょう……」と、一生懸命 責めなさいましたけれど、
「昔、私も若くて 何でも許されると見られていた頃でさえ、故宮(父君)が源氏を婿に迎えようと考えておられましたが、私にとっては、そうなるべきでなく 気がひける……」と思いましたので、
そのまま消えた話ですのに、晩年になって、女盛りを過ぎた不似合いの年齢になって、お応え申し上げるのも、恥ずかしいこと……」と、お思いでございました。
「宮が、もうお応えなさらないという御心ならば、何と辛いことでしょう」とお思いになりました。
そうかと言って、体裁が悪いほど突き放すというのではなく、人を介してのお返事などがありますのが、源氏の大臣にとっては辛いことでございました。夜も大層更けてゆくにつれて、風が激しくなって、一層心細く思えるので、程よいところでおし拭いなさいまして、
つれなさを昔にこりぬ心こそ 人のつらきに添へてつらけれ 心づからの
(訳)昔のつれなさに、懲りもしない私の心までも、
貴女のつらさに添えて、もっと辛く思われます。 我が心ながら……
心のままにつぶやきなさいました。
「本当にお辛いことでございましょう……」と、女房達も思い申し上げました。
あらためて何かは見えむ人のうへに かかりと聞きて心がはりを
(訳)今さら改めたりなどしましょうか。他の人には、
こんなこともあると聞いていた心変わりを……
などと、お応えなさいました。言う甲斐もないけれど、大層真剣に恨み言を仰って帰るのも、とても若々しい感じがしますので、
「このように 世間の話の種になってしまいそうな様子を漏らしなさらぬように……きっときっと、いさら川のことを、はてどんなことがあったのかと 引き合いに出すのも、馴れ馴れしいことです」と仰って、しきりに女房達とささやいて話し合っておられましたけれど、何の話だったのでしょう。
女房たちも、
「あぁ、もったいない。どうして強いて冷たい態度でお逢いになるのでしょう……。軽々しく ないがしろにはなさらないご様子でおいでになりますのに、お気の毒に……」と言っておりました。本当にそのとおり、人柄の素晴らしさや優しさも お分かりにならないのではないけれど、物の情をわきまえた人と見て欲しいと思われるのだろう。源氏をお誉め申し上げる世間の女と同列ではなく……。また一方では「軽薄な女性の心も、ご存知であるに違いない。こちらが恥ずかしくなる程、ご立派な方なのだから……」と思うと、親しく思われる御心さえも 自分には疎ましい感じがして、
「普通のお返事などは絶えることなく、ご無沙汰にならない程度に申し上げて、人を介してのお返事は失礼のないように済ませることにしよう。そして、長い年月、斉院を勤めて、仏事から無縁であった罪が消えるほどの勤行を努めよう……」と、思い立ちなさいましたけれど、
「急にこのようなことをして、源氏と別れた顔をしているのも、かえって思わせぶりに見えたりして、世間がとりなさないだろうか……」と、世間の人の口さがないのをご存知なので、お仕えする女房たちにも 打ち解けなさいません。大層心遣いなさりながら、だんだんと佛道の勤めのみをするようになられました。
ご兄弟の君達も大勢おられますけれど、一つ腹ではありませんので 大層疎遠でございました。宮の邸内が大層寂しくなってゆくにつれて、あれほど素晴らしい人(源氏)が 熱心に御心を尽くして求愛なさいますので、お仕えている人々は皆、心を一つにして心配しておりました。
源氏の大臣は、むやみに心乱れる程ではないけれど、宮の冷たい御振る舞いが悩ましいので、ここで負けて 宮を諦めるのも残念だ……とお思いになりました。なるほど御人柄や世間の評判も理想的で、物の道理をお分かりの方が、世間のあれこれの生き方の違いも広くお知りになった上で、昔よりも更に経験を多く積んできておられるので、今更 浮気事についての世の非難にも気を配っているものの、
「空しく終わってしまうのは、ますます物笑いとなるであろう。どうしたらよいものか……」と、お心が動いて、二条院にお帰りにならない夜が重なりますので、女君(紫上)は、冗談では済まされぬとお思いになり……人知れず、どうして涙がこぼれない折がありましょうか。
「不思議と、いつもと違うご様子が理解できません……」と、御髪をかき撫でながら 可哀相に思っておられるご様子も、絵に描きたいくらいのご夫婦仲に見えました。
「藤壺中宮が亡くなられて後、帝が大層寂しそうにお過ごしになられる様子を、お労しく拝見しておりますし、太政大臣(葵の父・この春 死去)もおられないので、今、政治を見譲る人がいないため、大層忙しいのです。この頃、家に帰らないことを、慣れていないとお思いになるのも当然で、お気の毒ですけれど、今はそうあっても、心穏やかにお思い下さい。大人になられたように見えますけれど、まだ気配りも少なく、私の忙しい気持もご存知ないままに悩んでいらっしゃるのが、とても可愛らしい……」などと、涙で丸くなった額の髪を手で整えなさいましたが、紫上はますます顔を背けて、何も仰いません。
「とても子供っぽくいらっしゃるのは、誰がしつけたのか……」と申しなさって、
「無常の世に これほど心隔てしておられるのも、困ったこと……」と、一方では、もの思いに耽っておいでになりました。
「斉院にとりとめのない話を申し上げたことを、もしや誤解していらっしゃるのではありませんか。それは全く関係のないことですよ。いずれ自然とお分かりになりましょう。昔から、又とない程 よそよそしいご性格の方なので、寂しい折々には平静でいられず、お悩ませしようと……、あちらも所在なくいらっしゃる折なので、お返事など申されましたが、本気ではないのですから、『宮とは、こんな関係で……』などと、貴女に話すべき事ではないでしょう。心配なことは何もないと思い直し下さい……」などと、一日中、紫上をお慰め申し上げなさいました。
雪が大層降り積もった上に、今も降り止まず、雪の積もった松と竹の姿が 趣深く見える夕暮れに、源氏の御姿も光輝いて見えました。
「四季折々につけても、人が心惹かれる花や紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄んだ月に、雪の光が映える空こそ、不思議と色はないものの 身に染みて感じられ、この世の外のことまで思いやられ、しみじみとした趣も 残るところなく表れる頃でございます。この景色を興ざめの例として、言い置いた人の 何と心の浅いことよ……」と仰って、御簾を巻き上げさせなさいました。
月は隈無くさし出して、白一色に見渡されるお庭に、萎れた前栽の影も見苦しく、遣り水も大層滞りがちで、池も凍って 言葉に出来ないほど心寂しい折、源氏の大臣は、童女を庭に下ろして、雪転がしをさせなさいました。可愛らしげな姿や髪の形が月光に映え、大きくて物慣れた童女が さまざまな袙(あこめ)(童女の日常着)をしどけなく着て、帯をゆるく結んだ宿直姿がかえって優美に見えて、長い髪の末が白い雪に一層引き立って、大層美しい感じがいたします。
小さい童女は、子供らしく喜んで走り回って、扇を落としなどして打ち解けているのが何とも可愛らしい。雪をもっと大きく丸めようと頑張るのですが、押し動かす事が出来なくなって困っているようです。他の童女は東の縁先に出て、気が気でない様子でそれを見て 笑っておりました。
「先年、藤壺中宮は、前庭に雪の山をお造りになりました。世間ではよくしていたことですけれど、珍しい遊び事や、ちょっとした遊び事をも なさったものでした。……何かの折につけても、亡くなられたことが残念で堪らない思いがいたします。大変疎遠なお振る舞いなさいまして、直に詳しいご様子を拝見したことはないけれど……、内裏の生活の中で、心癒される方として想っておりました。信頼申し上げて、何か事のある折には、ご相談申し上げてきましたが、目立って行き届いているようにはお見えにならないけれど、話し甲斐があり、つまらぬ事でさえも、心を込めて対応なさいました。あのような方が、この世に 他にいらっしゃるでしょうか。
内気でおっとりしておいでになり、奥深い嗜みのあるところは、並ぶ者もない様でございましたが、貴女こそは……そうは言っても、紫の血縁ゆえ、大して違ってはいないようですが……少し煩わしいところがあって、角々しさが勝っておられるのが困ったことです。
前齊院(朝顔)の御性格はまた様子が違って見えます。心寂しい時に、何か用事がなくてもお便りをし合っていて、私も心遣いをせずにいられないあたり、このお一方だけが、この世に残っておられます……」と申されました。
「尚侍(朧月夜)こそは、心遣いが行き届いて奥ゆかしい方として、人より優れておられました。軽率な方面では、ずっと離れた方の御心を捕らえて……不思議なことでございました」と仰いますと、
「たしかに……優雅で器量のよい女性の例としては、やはり引き合いに出さなければならない人ですね。そう思うと、お気の毒で……悔しい事が多くございました。まして浮気っぽく好色な人が、年をとっていかれますと、いかに残念に思うことが多いことでしょう。人よりは、この上なく静かな人と思っておりましたが……」などと仰って、尚侍の君の御事にも 少し涙を落としなさいました。
「あの、人数にも入れずに 蔑んでおられる山里の人(明石の君)こそは、身分の程にはやや過ぎるほど、ものの分別など辨(わきま)えておいでのようですが、人とは異なるべき人(源氏の御子を産んだ人)ですから、思い上がって気位高くお持ちの様子を、見ないようにしています。言う甲斐のない身分の人についてはまだ存じませんが、優れた人というのは滅多に居ないものです。
東の院に物思いしながら暮らしている人(花散里)こそ、若々しく愛らしくいらっしゃいます。
あのようには、あり得ないものですが、その方面につけての気立てのよさで、見初めてから、同じように 世を慎ましげに思って過ごしてきました。今はもうお互いに別れそうにもなく、深く愛しいと思っております……」などと、昔や今の話などをして、夜は更けてゆきました。
月はますます澄んで、静かで美しい光景でした。紫上は、
こほりとぢいしまの水はゆきなやみ 空すむ月のかげぞながるる
(訳)氷に閉じ込められた石間の遣り水は、流れかねていますが、
空に澄む月の光は、流れてゆきます……
外をご覧になって、少し顔を傾けなさいましたのが、似る者のないほど可愛らしくいらっしゃいます。髪の様子や顔立ちが、恋慕い申し上げる方(中宮)の面影にふと見えて 素晴らしかったので、少し他に分けているご寵愛も、この方のほうへ取り戻してお加えになることでしょう。
鴛鴦(おし)(おしどり)が少し鳴いたので、
かきつめてむかし恋しき雪のよに あはれをそふる をし(ヽヽ)のうきねか
(訳)あれこれかき集めて、昔が恋しくなる雪の夜に、
しみじみとした思いを添える おしどりの鳴き声よ……
中にお入りになって、藤壺の中宮のことを思いながらお寝すみになりますと、夢ともなくほのかに、亡き中宮のお姿が現れ、大層お恨みのご様子で、
「他には漏らさない……と仰ったのに、二人の噂が隠せなかったので、恥ずかしく苦しい目をみるにつけても、本当に辛いことでございます……」と仰いました。源氏がお返事申し上げようと思いますと、物の怪に襲われる心地がしました。
紫上が、
「どうして、このように……」と、隣でうなされている源氏の君を揺すりましたので、目を覚まし、夢が途切れたことを 残念にお思いになりました。胸が騒ぐのをじっと抑えていますと、自然と涙が溢れて、尚も大層袖を濡らしなさいました。 紫上はどうしたことかと、身じろぎもせず臥しておいでになりました。
「やすらかに寝られず、目覚めて寂しい冬の夜に、結んだ夢の短いことよ……かえって、物足りなく悲しいことだ……」とお思いになって、朝早くにお起きになり、それとは言わずに、所々の寺にて誦経などおさせになりました。
「苦しい目に遭わせなさる……」とお恨みになっているご様子なのも、
「きっとそのようにお思いなのだろう。勤行をなさり、万事に罪が軽くなった様子であったものの、私とのひとつの事(密会)で、この世の罪を流すことがお出来にならなかったのだろう……」と、物の道理を深く辿りなさいますと、大層悲しくなられ、
「なんとかして、誰も知る人のいない世界(冥土)にいらっしゃるのをお見舞い申し上げるためにも、私が代わりに、罪をお引き受けしたい……」などと、しみじみお思いになりました。
「あの方のために、特に取り立てて仏事をさせるのは、世間の人が咎めることになろう。帝におかれても、良心の呵責にお思いになるかもしれない……」と遠慮なさる間、阿弥陀仏を心に浮かべて、お祈りなさいました。
「同じ蓮の上に……」と思って、
なき人をしたふ心にまかせても かげ見ぬ水の瀬にやまどはむ
(訳)亡くなった人を恋い慕う心にまかせても、
三途の川の水の瀬にその姿も見えないので、迷うことになるのか……
そう思うのも、大層辛い事でございました。
源氏物語ー朝顔(第二十帖)
平成二十五年如月 WAKOGENJI (文・絵)
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