やさしい現代語訳

源氏物語「胡蝶」(こちょう)第24帖

源氏の君36歳、紫上28歳、玉鬘22歳、夕霧15歳の頃の物語

登場人物の 系図     源氏物語の本で読む

 
 三月二十日過ぎの頃、六条院 春の御殿のお庭は、例年より特に手を尽くされましたので、美しい花々が咲き乱れ、鳥のさえずりが聞こえて、誠に素晴らしい様子でございました。他の町に住む御夫人方には、まだ春の盛りが過ぎないのか……と珍しく見え、築山の木立や、池の中島の辺りの、青々とした苔の景色などが大層美しいですのに、遠くから僅かしか見えませんので、若い女房たちも物足りなく思っておりました。
 そこで源氏の君は、唐風に仕立てた舟を急いで造らせなさいました。初めて舟を池に浮かべる日には、雅楽寮の楽人たちをお呼びになり、舟楽をお楽しみになりました。親王たちや上達部などが、多数参上なさいました。
 この頃、秋好中宮は里邸(秋の御殿)においでになりました。源氏の君はこの中宮が以前(少女の巻)に、「春待つ園は……」と紫上に競って和歌をお詠みになりましたことを思い出され、その歌のお返事をするにはよい時期……とお思いになりました。
 「何とか、中宮にこの花の季節をご覧に入れたい……」と仰いました。けれどもよい機会もなく、気軽にお越しになり花を楽しむこともできませんので、こうして舟楽を催されたのでございます。風流を喜びそうな女房たちを舟にお乗せになり、中宮の御殿の南の池が、こちらに通じるように造られていますので、小さい築山を「隔ての関」に見立てて、その山の先から漕ぎ回って来るようになさいました。そして東の釣殿には、こちらの若い女房たちをお集めになりました。
 舟は竜頭鷁首で唐風の装飾に仰々しく飾り立て、舵取りの棹をさす童も皆、髪を角髪に結って唐土風に設えて、その大きな池に漕ぎだしましたので、このような舟楽を見慣れない女房などは、まるで見知らぬ国に来たような心地がして、大層素晴らしいと興味深く思っておりました。
 中島の入り江の岩陰に舟を寄せますと、小さい庭石の佇まいも絵に描いたように素晴らしく、周りの木々の梢が霞み、まるで錦を敷き渡したように御前のお庭が遙々と見通せます。青々と色を増した柳も枝を垂らし、言葉に表せないほど美しい花々を一面に散らしたようでした。よそでは盛りを過ぎた桜も、ここは今を盛りに咲き乱れ、廊を巡らした藤の花も紫色濃く咲き初めていました。池の水面に影を映した山吹の花が、美しい盛りと岸から咲きこぼれています。小枝をくわえた水鳥の番が睦まじく遊び、おしどりが水面に波紋を広げる光景は、何かの図案に写し取りたいほどでした。誠に、斧の柄が朽ちてしまうほど、長く見ていても飽きない素晴らしい景色を、皆は一日中眺めながら過ごしておりました。

   風吹けば 浪の華さへ色見えて こやなにたてる山吹の崎

    (訳)風が吹くと浪の華までが映えて見えますが、これは評判な山吹の崎でしょうか

   春の池や井手の川瀬にかよふらん 岸の山吹そこもにほへり

    (訳)春の殿の池は、井手の川瀬に通じているのでしょうか。
       岸の山吹が川底にも美しく咲いているように見えます。

   かめのうへの山も訪ねじ 舟の中に老いせぬ名をば ここに残さん

    (訳)逢菜山まで訪ねるのはよそう この舟の中で不老の名を残しましょう

   春の日のうららにさしてゆく舟は 棹の滴も花ぞ散りける

     (訳)麗らかな春の日に、漕ぎゆく舟の 棹の滴も花となって散ります。

取り留めのない和歌などを詠み交わしながら、舟は行く先も帰る里も忘れてしまいそうで、若い女房たちが心を奪われるのも、無理もないほど美しい水面の風景でございました。

 日が暮れかかる頃、「皇じょう」という雅楽が美しく聞こえる中を、思いがけず中宮づきの女房たちが、釣殿にさし寄せられて舟を降りました。ここの調度は大層簡素で優雅なものでした。御方々の若い女房たちの「自分こそは劣るまい……」と心尽くした装束やご容貌は、春の錦に劣らず美しく見えました。世にも珍しい雅楽などがいくつも奏でられ、特に選ばれた舞人などが美しく舞いました。
 夜になりましたが、まだ大層物足りない心地がしましたので、御前の庭に篝火を灯し、階の元の苔の上に楽人を控えさせて、上達部や親王たちが皆、弦楽器や管楽器などを各々奏しなさいました。師匠格の特に優れている楽人だけが双調を吹いて、階上で待っていた楽人たちが、琴の調べを大層華やかに掻き鳴らしました。「安名尊」(催馬楽)を奏した時には、皆は「生きていた甲斐があった……」とお思いになるほど心打たれる演奏となりました。何の事情も分からない庶民さえも、御門の辺りに隙間無く並んだ馬や御車の辺りで、微笑みを浮かべて楽を聴いておりました。人々には、空の色や楽の音も、春の調べと響き合って、特に優れて感じられたことでしょう。だんだんと調子も唐風から和風に変わって、「喜春楽」が奏されました。兵部卿の宮も「青柳」を繰り返し美しく謡い、源氏の君も楽を添えなさいますうちに、やがて夜が明けてきました。朝ぼらけの鳥のさえずりを、中宮は築山を隔てて、羨ましく聞いておられたようでございました。

 いつも春の光りに満ちている六条院なのですが、これまでは、想いを寄せるような姫君がいないことを残念に思う公達もおりました。今では西の対の姫君(玉鬘)が、何一つ欠点のない美しいお姿でいらっしゃる事や、大臣の君が特別に大事になさっているご様子などが、すっかり世の評判になって、源氏の君の予想どおり、玉鬘に心寄せなさる人々も多くなりました。
 我が身こそは、姫君のお相手として最適と思い上がった人が、伝手を求めては、その想いを訴えなさいました。特に口に出して申し上げる方もありましたが、口に出すことも出来ずに、心の中に想い焦がれている若い公達などもあるようでした。

 その中でも、中将(内大臣の息子)は、異母姉弟であることも知らずに、すっかり心奪われてしまったようです。また兵部卿の宮は、長い年月連れ添われた北の方も亡くなられ、この三年程独り住まいで寂しくおられましたので、今は求婚の意をお見せになりました。今朝も大層酔ったふりをして、藤の花をかざして、しなやかに振る舞っておられまして、そのお姿は誠に優雅でございました。源氏の君も予想通りだとお思いになりましたが、素知らぬ顔をなさいますので、酒宴の折に、宮は大層お悩みになって、
 「心悩ます事がなければ、逃げだしたいものです。とても耐えがたいほどに想いは募り……」と杯を辞退なさいました。

   紫のゆへに心をしめたれば 淵に身投げん なやはおしけき

    (訳)紫にゆかりの方に心奪われていますので、淵に身を投げても名は惜しくありません

と詠んで、大臣の君に同じ藤の簪をお手渡しなさいました。源氏の君は大層微笑みなさって、

   淵に身を投げつべしやとこの春は 花のあたりをたちさらて見よ

    (訳)淵に身を投げる価値があるでしょうか。この春の花の辺りを立ち去らずにご覧なさい……。

と、無理にお引き止めなさいますので、お帰りになる事も出来ずにおられました。今朝の管弦の遊びは大層興味深いものになりました。

 今日は秋好中宮の御読経の初日でしたので、多くの方々がそのままお帰りにもならず、休み所をとって、昼の装束にお召し替えをなさいまして、午の刻(正午)頃、中宮の御殿に参上なさいました。大臣の君をはじめとして殿上人なども残らず参上され、大層高貴で厳めしいご様子でした。
 春の上(紫上)からの御志として、仏に花をお供えなさいました。鳥と蝶の装束を着た美しい童が八人、鳥には白金の花瓶に桜を、蝶には黄金の瓶に山吹の花を、花の房も立派で世にまたとない美しいものばかりを選ばせて、飾らせなさいました。
 舟が南の御前の山際から漕ぎだして御前に出る頃、少し風が吹いて、瓶の桜が散り合いました。誠に麗らかに晴れ渡り、霞の間より出てきた光景は、大層風情があり優雅に見えました。女童たちが御階のもとに寄って花などを奉りました。行香の人々(僧に香を配る人)がそれを取り次いで、閼伽棚に加えさせなさいました。

 花園の 胡蝶をさへや下草に 秋まつむしは疎くみるらん

 (訳)花園の胡蝶までが下草に隠れ、秋の松虫(秋を待つ中宮)は
        さぞつまらないとご覧になるでしょう

 お手紙を、中将の君(夕霧)から差し上げなさいますと、中宮は「昔の紅葉のお返事……」と微笑んでご覧になりました。女房たちも、
「本当に春の美しさを、負かすことなどできません……」と、花に見とれて申し上げました。「鳥の楽」が華やかに響き渡る中、鶯の麗らかな声が聞こえ、池の水鳥も囀り合っているうちに、楽の音は急(終わりの調子)に変わりました。蝶の舞は儚げに飛び立って、山吹の垣に咲きぼれる花の陰から美しく舞い出て、それは飽かず素晴らしいものでした。
 宮の亮(中宮の次官)をはじめとして然るべき殿上人も、禄(ほうび)を取り次いで女童に賜り、鳥の女童には桜の細長(着物)を、蝶の女童には山吹襲を賜りました。かねてより準備してあったようでございます、楽の師どもには、白い一襲や巻絹などを、それぞれの身分に応じて賜りました。中将の君には、藤の細長を添えて女の装束をお与えになりました。お返事には、
 「昨日は声を上げて泣きそうでした。

   胡蝶にも誘われなまし心ありて 八重山吹の隔てさりせは

     (訳)胡蝶にも誘われたほどでした。八重山吹の隔てがありませんので……

 立派なご身分の方ですのに、このような方面はあまりお上手でないのでしょうか。予想ほどにも見えない詠みぶりでございます。あの見物をしていた宮づきの女房たちにも、素晴らしい贈物などを与えなさいましたが、そのようなことは細かいことで面倒なので、省略いたしましょう。

 六条院の明け暮れには、このようにちょっとしたお遊びも多く、源氏の君はご満足してお過ごしでしたので、御方々も自ら物思いのない心地がして、お互いに手紙などを交わしておられました。 西の対の玉鬘は、あの踏歌の折に紫上にお逢いになって以来、お手紙を交わしなさいました。御心の深いか浅いかは別として、玉鬘のご様子は大層気が利いていて、懐きやすく優しいご性格のようで、人の心を遠ざける心もない方なので、どの方も皆、好意をお寄せになりました。この玉鬘に想いを寄せる公達は大勢いらっしゃいますのに、源氏の君は簡単にお相手をお決めになることもなされず、ご自分の心の中に、父親として振る舞うこともできそうもない……というお気持があるのでしょうか。大層物思いをなさいまして、
 「父大臣(内大臣)にお知らせしようか……」などと、お考えになる折もありました。

 殿の中将(夕霧)はお側近くの御簾に近寄って、ご自分で直接言葉をかけなさいますので、玉鬘は恥ずかしくお思いになりましたが、中将は二人が兄妹であると信じておられますので、玉鬘に想いを寄せるなど思いもかけないご様子でした。
 内大臣のご子息たちは、この夕霧にくっついて、玉鬘への想いをほのめかし、溜息をつきながら西の対辺りをうろうろ歩き廻りましたが、玉鬘はそのような恋路には関心もなく、真の親に娘と知っていただきたい……と、人知れず思い続けておりました。けれどその真実を漏らし伝えることもなさらず、ひたすら源氏の君を頼りに思っていらっしゃる心遣いが、可愛らしく若々しくおられました。よく似ているというのではないけれど、母君(夕顔)のように大層才気の見えるご様子でした。

 衣更えが今風に華やかに改まり、空の様子なども不思議と趣きある頃、源氏の君はのどやかに管弦の遊びなどをして過ごしておられました。対の御方(玉鬘)に公達からの御文が多くなってゆきますのを、予想通りだと面白くお思いになりまして、ともすれば玉鬘の所にお渡りになっては、それらをご覧になり、
「然るべき方にはお返事をするように……」等と仰いますので、玉鬘は気詰まりで辛いこととお思いでございました。
 兵部卿の宮が、まだあまり日も経ってないのに大層恋い焦がれなさいまして、恋の悩みなどを書き綴っている御文をご覧になって、源氏の君はにっこりお笑いになりました。
 「早くから大勢の御子たちの中でも、この君を分け隔て無く、格別親しく思っていました。ただこのような恋のことに関しては、大層隠しなさいましたので、この晩年になって、宮の好色な心をみるのは、面白くもあり情深く思えることです。少しでも心得あるなら、やはりお返事をお書きなさい。あの親王より他に、和歌を交わすことのできる方はこの世におられないでしょう。大層素晴らしい宮ですよ……」と、若い女性が夢中になってしまいそうにお話しなさいましたが、玉鬘はただ恥ずかしそうにばかりしていらっしゃいました。
 「右大将は大層真面目で重々しい態度をなさる方ですが『恋いの山路では、孔子も倒れる』という諺どおりに、恋い焦がれて悩んでいる様子も、人の恋として面白い……」等と仰りながら、幾つかの手紙を見比べなさる中に、とても優しい深い香りの染みた唐の縹の紙で、大層小さく結んである手紙を見つけました。
 「これは、どうして結んだままなのか……」と引き開けなさいますと、

   思ふとも君は知らしなわきかへり 岩もる水に色し見えねば

     (訳)こんなに思っていても、貴女は知らないのでしょう。
        湧き返って岩に溢れる水には色が見えませんから……

それは大層趣きがあり、書き様も今風に洒落ていました。源氏の君は、
 「これはどういうことか……」とお尋ねになりましたが、姫君ははっきりお答えになりません。
そこで右近をお呼びになり、
 「このように姫のところに手紙を下さる方を、よく選んでお返事をさせなさい。浮気っぽく不真面目な女性が、不都合な事をしてしまうのは、男の罪とばかりは言えないのだ。私の経験から思うのだが、その時には思慮分別のない女や、または身分をわきまえない呆れた人と思った女が、特に深い意味もなく、花や蝶に寄せた便りにさえも、男をじらすように返事をしないのは、かえって男を熱心にさせるものです。それで男が忘れてしまうのは、女に何の罪がありましょうか。しかしつまらぬ便りにも、早く返事をすべきと心得ているのも、実はそうでなくてもよいことで、後で難を招く種となるものです。女が心のままに、すべて情趣を知り尽くしたような顔をしている風なのも、積み重なるとつまらない結果になるものです……。
 宮や大将はご身分も高く、なおざり事をなさる方でもなし、あまり玉鬘が分別を知らないようなのも、姫君のご様子とは異なっていましょう。これより低い身分の人には、男の気持ちの強さに応じて、愛情のほどを判断し、労を考えに入れてお返事をさせなさい……」等と申しなさいましたが、玉鬘はまるで関心のない様子で、横を向いておられまして、その横顔が大層美しくいらっしゃいました。
 撫子模様の細長(着物)に卯の花の小袿を着て、襲色に品があり華やかで、立ち振る舞いなどは、……と言っても田舎びた名残りがあった頃には、ただおおらかにばかり見えていましたけれど、御殿に仕える女房たちの立ち振る舞いを見て、お分かりになったのでしょう。大層外見もよくしとやかになられ、お化粧なども気遣いなさっていますので、この頃はますます欠点もなく、華やかで美しげにいらっしゃいました。源氏の君は
 「玉鬘を他人の妻としてしまうのは、誠に残念だ……」とお思いになりました。
 右近も微笑みながら拝見し、
 「源氏の君は親としては似合わないほど、若々しくおられるようです。お二人はご夫婦になられた方が、お似合いで素晴らしい……」と思っておりました。
 「公達からのお手紙などを、姫君に取り次ぐことは決してありません。以前ご覧になった三、四通につきましては、今からお返しするのは失礼かと、御手紙だけを受け取りなどしたようですが、お返事は決して……、ただ源氏の君のお許しを得た時だけでございます。それだけでさえ、姫君は辛く思っていらっしゃいます」と申し上げました。
 「この若々しく結んである御文は、誰からかね。とても上品に書いてあるようだが…」と微笑んでご覧になりますと、
 「あれはしつこく手紙を置いて帰ったものです。内大臣のご子息の中将が、玉鬘に仕えているみるこ(女童)を前々からご存じでおられましたので、その伝手でお受けしたものです。他に目をとめる女房などはございません」
 「大層いじらしいことだ。身分が低くとも、あの人たちに恥をかかせることはできません。公卿といっても、この人の評判に必ずしも並ぶような人こそ、多くはないものだ。その中でもこの中将は大層落ち着いた人で、いつかそう分かる時もあるでしょう。今ははっきり返事をせずに、右近が言い繕いなさい。……それにしても見所のある手紙です」とすぐには下にお置きになりません。
さらに源氏の君は、
 「こうしてあれこれ申し上げるのを、貴女は不愉快にお思いだろうが、あの内大臣に真実を知られて、まだ世間知らずの姫が、長年離れていた兄弟の中に入るのは、いかがなものか……と、思い巡らしているのです。やはり世間の女性が落ち着くような方面(結婚)で身を固めることこそ、人並みの幸せというものです。然るべき機会もありましょう。
 兵部卿の宮は独身のようですが、大層浮気っぽく、お通いになる女性が多いと言うことですし、召人などに情を交わしたなどと名乗りをする女も数多くいるようです。そういう事を、憎く思わずに見過ごしなさる性格の女性なら、万事を穏やかに済ませてしまうでしょうけれど、少し心に角のある人なら、自然に夫に嫌がられるようになるに違いない。その心遣いが大切と知っておくべきでしょう。
 髭黒の大将は、長年連れ添った妻が年老いたことを嫌がる心があって、他に女性を求めるようであるが、周囲の人々は困ったことと見ているようです。それも尤もなので、様々に考えては、人知れず、玉鬘の結婚相手としては決めかねているのです。
 このような問題については、親などにも自分の気持ちを話し難いことなのですが、姫はもうそんなお年でもないので……、今は何事もご自分で判断できましょう。私を、昔亡くなった母君とお思いください。姫君の御心に添わない事は、お気の毒ですから決して……」などと、大層誠実に申しなさいますので、姫君は困ってお返事することもできません。あまりに世間知らずと思われてもいけないので、ようやく、
 「何事の分別もなかった頃から、親に会えないことに慣れていましたので、私としては何も考えられません……」とお答えしましたが、そのご様子が大層おっとりしているので、
 「誠に……無理もない。それならば、世の言う後の親とお思いになって、私の熱い気持ちの程を、いずれお分かり下さいませんでしょうか……」等と細々お話なさいました。けれどもご自身の熱い御心については、恥ずかしいので口に出すことがおできになれません。時々、ほのめかすような言葉を仰るのですが、玉鬘が無関心な様子でいらっしゃいますので、大層お嘆きになって部屋を出られました。

 お庭の呉竹が大層若々しく育って、心惹かれる様子で風に揺れていますので、源氏の君は思わず立ち止まって、

籬の内に根深く植へし竹の子の をのがよよにやおひ別るべき

 
(訳)我が庭の籬垣の中に大切に育てた竹の子(玉鬘)も、
       自分の生きる内に親と別れると思えば恨めしい

御簾を引き上げて申しなさいますと、玉鬘がにじり出て、

今さらにいかならんよか若竹の おひはしめけん根をば訪ねん

 (訳)今更実の親の血筋など、どうして訪ねたりしましょうか

かえって困ったことになりましょう……」と申し上げますので、源氏の君は一層愛しくなられ、
 「そうは言うものの、本心はそう思ってはいないだろう。どんな折に、本心を語ってくださるのか……」と心許なく気の毒にお思いになりました。玉鬘は昔の物語などを読んで、親子の間や男女の仲のあり方を、今はお分かりになっていますので、大層つつましく、
 「実の親と言っても、幼い頃よりずっと逢っていなかった親が、これほど細やかにお世話くださることはあり得ません……」と申し上げ、源氏の君のお気持を思うと、父・内大臣に娘と知られる事は、とても難しいだろうとお思いになりました。

 源氏の君はますます愛しくお思いになり、紫の上にもお話しになりました。
 「不思議なくらい心惹かれる人なのですよ。あの頃の夕顔はあまり明るい人ではなかったが、この玉鬘は物の分別もよく分かっている上に、人懐っこい性格も加わって、不安なところがないように見えます」 紫上は、源氏の君が玉鬘に無関心のままではいられないご性格であることを分かっておりますので、
 「分別を分かった方のようですのに、本心から打ち解けて、君を頼りにお思いになることこそ、お気の毒で……」と申し上げなさいました。
 「どうして頼りにならないことがあろうか……」と仰せになりますと、微笑みながら、
 「この私さえも、貴方の御心を恨んだことが何度もありましたことを、今、思い出さずにいられません……」
 「何と察しの早い……。不愉快なことをお思いですね。……全く分からないわけでもないが……」と源氏の君は煩わしくなられて、紫上がこのように推測なさるのを、どうしたらよいのだろう……と思い乱れなさいましたが、一方では、ご自分のけしからん御癖のことも、よくお分かりになっておられました。
 それでもただ一途に、玉鬘のことが大層気にかかりますので、しばしばお渡りになり、お逢いになったのでございます。

 雨が降った名残りのしっとりした夕方、お庭には若い楓や柏木などが、青々と茂り合っておりました。源氏の君は何となく心地よい空をご覧になり、「和してまた清し……」と古歌を口ずさみ、まず華やかに美しい玉鬘のご様子を思い出しなさいまして、またいつものように、忍んでお渡りになりました。玉鬘は手習いなどしてくつろいでおられましたが、身を起こして、恥ずかしそうになさるお顔がとても美しくいらっしゃいました。
もの柔らかなご様子に、源氏の君はふと昔の夕顔のことを思い出され、耐えがたく、
 「初めて貴方にお逢いした時には、こんなに似ているとは思いませんでしたのに、不思議とあたかもその人かと間違う折々もあり、感慨深いことでございます。中将(夕霧)が、亡くなった葵の美しさに全然似ていないのに見慣れたせいで、親子はそれほど似ないものと思っていたのに、このような方もおいでになるのか……」と涙ぐみなさいました。箱の蓋にある果物の中に、橘の実があるのをまさぐって、

   橘の薫りし袖によそふれば かはれるみとも おもほえぬかな

     (訳)貴女を懐かしい昔の夕顔と思い合わせれば、とても別の人とは思えません。

わが人生、ずっと心にかけて忘れられない方なので、長い年月を心慰めることなく過ごしてまいりました。こうして貴女にお逢いして、夢ではないかと思われます。やはり恋しく耐えがたく思われますので、どうぞ私を嫌がらないでください……」と、いきなり手を握りなさいました。玉鬘なこのようなことに慣れていませんので、とても不愉快にお思いになりましたが、おっとりとした様子で、

   袖のかを よそふるからに橘の みさへ儚くなりもこそすれ

     (訳)懐かしい母君と似ていると思われますと、この身さえ似て、
        儚くなってしまうかも知れません

とても困ってうつ伏しておられるお姿に、源氏の君は大層心惹かれました。手つきがふっくらと肥えて、身体つきや肌つきが細やかで愛らしいので、かえって今後、物思いの加わる心地がなさいました。今は愛しい気持ちを少し伝えなさいましたが、玉鬘が「どうしよう……」と震えている様子がはっきりと分かりますので、
 「どうしてそんなに嫌なのですか。人目につかぬよう、女房に咎めれないようにと気配りをしていますよ。何気ない様子で、私の情愛を隠してください。親としての気持を疎かにしているのではありませんし、貴女の思いに添うようにと、世間に類のないほど強く想っているのです。ましてや、この手紙をくれる人々より、私を見下しなさってもよいものでしょうか。私のように深い愛情の人は、この世にいないでしょう……。誠に、貴女を他人に渡すのが残念でならないのです」と仰いました。
 親として何と出過ぎた御心なのでしょう。

 雨が止んで風が吹き、竹がさやさや鳴りました。華やかに差し出した月光がしっとりと美しい夜、女房たちは、源氏の君と玉鬘の細やかな語らいに遠慮して、お側近くにお仕えしておりませんでした。いつもお逢いになる御仲ですのに、これほどよい機会が今までありませんでしたので、言葉に出したついでの一途な心からでしょうか……、源氏の君は御身に懐いた柔らかい御衣を、人目に気づかれぬように、そっと脱ぎ滑らしなさいまして、玉鬘の横に添い臥しなさいました。玉鬘は大層辛くお思いになって、
 「女房たちがどう思うでしょう。あり得ないこと……。もし実の親元にいたとしたら、疎かに見放される扱いを受けることはあろうとも、このような辛いことはないでしょうに……」と悲しくなられて、抑えようとしても涙がこぼれてしまいました。
 源氏の君は可哀想になられて、
 「このように貴女が嫌がりなさることこそ、私には辛い事でございます。このような時には、何の縁もない他人でさえ、男女の仲の習わし通り、みな許すようですけれど、私たちのように年月を経た睦まじい仲なのに、ただこうして逢うことが、何で嫌なことなのでしょうか……。もうこれ以上の無理強いはいたしません。耐えるに余りあるわが心の程を、晴らすだけですから……」と繰り返し、しみじみと優しくお話しなさいました。源氏の君にとっては、ただ昔の夕顔と居るような気持がして、大層感慨深いものでしたが、ご自分の御心ながらも、思いがけず軽率なことをしたとお分かりになったようで、深く反省なさいました。
 「私を嫌とお思いになるのは大層辛いことです。限りなく底知れぬ深い愛情でおりますので、女房が咎めるようなことは決していたしません。ただ昔の人(夕顔)を恋しく想う慰めとして、つまらぬことをも申し上げたかったのです。同じ思いでしたら、どうぞお返事などなさって下さい……」と、大層心を込めて申しなさいましたが、玉鬘はうわの空で、ただひたすら嫌だとお思いでした。
 「それほどまで……とは、お見受けしなかったです。そんなにひどくお恨みなのですね……」と源氏の君はお嘆きになり、
 「女房たちには気づかれないように……」と仰って、あまり夜も更けぬうちにお帰りになりました。

 玉鬘はもう婚期を過ぎておられますけれど、男女の仲をご存知ないといえども、世慣れた人の経験さえもご存知ないようです。源氏の君とこれ以上親しくなることなど思いもよらず、こうなることは思いの外……と大層嘆いていらっしゃいますと、とても気分も悪くなってしまいました。周囲の女房たちは「ご病気のようにお見受けする……」とご心配申し上げました。 けれども兵部(乳母の娘)などが、
 「源氏の君の御心遣いは、何と細やかで畏れ多くいらっしゃいますこと……。真の親といえども、とてもこれほど思いをかけては頂けないし、こんなにお世話もして下さらないでしょう……」と耳打ちして申しますので、玉鬘には一層心外で、不愉快な源氏の君の御心を大層疎ましく思われ、
 「わが身の上こそが辛い……」と、すっかり思い沈んでしまわれました。

 翌朝、早くにお手紙がありました。玉鬘は気分が悪くて臥せておられましたが、女房たちが御硯などを差し上げて「早くお返事を……」と申し上げますので、しぶしぶそれをご覧になりました。白い紙で、うわべは穏やかに生真面目な様子で、大層素晴らしく書いてありました。
 「この上ない貴女のご様子こそ、辛くて忘れがたくございます。お側に仕える女房はどう思ったでしょうか。

   打ち解けて ねもみぬものを若草の こと有かほに むすほヽるらん

     (訳)打ち解けて寝たのでもないのに 何かあったように塞ぎ込んでいるのでしょうか。

心幼くいらっしゃいますね……」と、それでも親のような言葉使いをなさいますので、玉鬘は大層憎らしいとお思いになりました。お返事を差し上げないのも女房が不思議がるので、ぶ厚い睦奥紙に、ただ、
 「拝見しました。気分が悪いので、お返事は申し上げられません」とのみありますのを、
 「さすがに素直なご性格でいらっしゃる……」と、源氏の君は微笑まれて、口説き甲斐がある……とお思いになりました。誠に困った御心でございます。

 源氏の君が熱い想いをお伝えになってから後は、「太田の松のように……」(古歌)のように、その想いが玉鬘に通じないので、繰り返しうるさく申し上げることが多くありました。玉鬘は、ますます身の置き所がないような気持がして、物思いの種となり、本当に病気になってしまうようでした。事情を知る人は少なく、女房たちは、実の親と思っておりますので、
 「もし万一、この真実が世間に漏れたなら、ひどく世間の笑いものになり、大層辛いことになるでしょう……。いつの日か、父・内大臣などがお尋ねくださったとしても、親身になって扱っては下さらないでしょう。それどころか、大層軽はずみな娘だとお聞きになることでしょう……」など、あれこれ不安にお思いになりました。

 兵部卿の宮や髭黒大将などは、源氏の君のご意向として、自分を玉鬘のお相手としてお考えだという事を伝え聞いて、大層心を込めてお手紙などして求婚なさいました。
 あの「岩に漏れる……」と詠んだ中将(内大臣の子息)も、源氏の君の御許しがあったようだと、ほのかに耳にして、真の血筋を知らないまま、ただ一途に、熱心に恋の恨みを訴えて、西の対辺りを歩き回っているようでした。
 ( 終 )
源氏物語ー胡蝶(第二十四帖)
平成十六年師走 WAKOGENJI(訳・絵)
目次に戻る