「当然の事だとは思うけれど、何とも腹立たしい言い方だなぁ。……それにしても、このようなそっけないお返事だけを心の慰めとして、どうして日々過ごしていけようか……。姫宮(女三宮)が女房を介さずに、直に私に何か一言でも仰るとか、また私から申し上げるような時が、いつかくるのだろうか……」と、衛門の督(柏木)は不安に思うにつけても、普段から素晴らしい方と尊敬申し上げる院(源氏)に対して、いくらか邪な思いが、生じたのでありましょう。
晦日の日には、人々が大勢六条院に参上なさいました。衛門の督は気が進まずに、
「落ち着かないけれど、姫宮のおられる辺りの桜の花の色でも見れば、心慰められるだろうか……」と思って、参上なさいました。
殿上の賭弓は二月に予定されていましたのに、その日も過ぎてしまいました。三月もまた御忌月なので残念と、人々が思っていたところに、「六条院でその催しがあるようだ……」と伝え聞いて、いつものように皆がお集まりになりました。左右の大将(鬚黒・夕霧)は身内という間柄で参上なさいますし、中将達もお互いに競い合っておられました。大殿は「小弓」と仰いましたが、歩弓の勝れた名手などもおりましたので、特にお呼びになって射させなさいました。
殿上人たちも、相応しい人々は皆、前方と後方とに組み分けをして競い合いました。日が暮れゆくままに、今日が最後かと思われる春霞のもと、慌ただしく吹き乱れる夕風に、花の陰は一層立ち去りがたく思われ、人々は酷く酔い過ごしておいでになりました。
洒落た賭物の数々には、あちらこちらのご婦人方の御心が伺えるようでした。「柳の葉を百度命中できそうな舎人たちが、わがもの顔で射取るのは、情趣の心のないことだなぁ……」「少しおっとりした手つきの人たちこそ、競争させようか……」など仰りながらと、大将たちをはじめ人々が庭にお下りになりました。
けれども衛門の督は他の人と違って、ただ物思いに耽っておられますので、あの事情を知る大将(夕霧)の目に止まって、
「やはりひどく様子が変だ。何か煩わしい事が起こるのだろうか……」と、自分さえも悩ましいような心地がしました。この二人の君達は仲が大変良いうえに、従兄弟という間柄ですので、心交わして親密な様子でおられましたので、ちょっとした事でも心配に思われ、心紛れることがない時には、大層気の毒にお思いになりました。
衛門の督は、自分の事ながら大臣(源氏)を拝見すると恐ろしく、目を伏せたい程に思われましたので、
「このような考えは持ってもよいものか。些細なことでさえ、人から非難されるような振る舞いはするまいと思うものを……まして、身の程を弁えぬ大それた事を……」と思い悩んだ末に、
「あの先日の猫を手に入れたいものだ。想いを打ち明けることはできないけれど、寂しい独り寝を慰める相手として、懐かせてみようか……」と思い立ち、狂おしいほどに「一体、どうやって猫を盗み出したらよいものか」と悩まれました。けれど それさえも難しいことに思えました。
弘徽殿の女御の御方に参上して、お話などを申し上げ、心を紛らわそうと試してみました。弘徽殿の女御は、大層嗜み深く、こちらが恥ずかしくなるほどの対応をなさいますので、直にお姿をお見せになることはありません。
「このように姉弟の間柄でさえ、ずっと隔てを置いてきたのに、あの日、思いがけず姫宮のお姿を垣間見たのは、誠に不思議なことであった……」とさすがに思われ、強く想い初めた気持は、軽率とは思われませんでした。
春宮に参上なさいまして、当然ながら、女三宮と似ておられるだろうかと、目を留めて拝しますと、春宮は輝くほど美しいご容貌というのではないけれど、この位の御身分の高い方の御様子として、また格別で、誠に上品で優雅におられました。
内裏の御猫が引き連れていた子猫たちは、あちこちに貰われて行きました。この春宮のところにも来ていましたが、とても可愛らしく歩き廻るのを見るにつけても、まずはあの唐猫のことが思い出されますので、
「六条院の姫宮(女三宮)のところにいる猫こそ、大層、見たこともないような顔をしていて、可愛らしいですよ。ほんの少し拝見したのですが……」と申し上げなさいました。春宮は特に猫を可愛がるご性格で、詳しくご質問をなさいましたので、
「それは唐猫で、ここの猫とは違う表情をしていました。猫とはどれも同じようなものですが、その性質が可愛らしく、特に人に馴れたのは、不思議と愛らしいものでございます」と申し上げました。
これをお聞きになって、春宮が、桐壺の御方を介してご所望なさいましたので、姫宮はその唐猫を、こちらに差し上げなさいました。
「本当に可愛らしい猫ですこと……」と、女房たちが面白がって見ておりました。
衛門の督は、
春宮はきっと唐猫をご所望なさる……と推察して、数日が経ってから、また参上なさいました。小さい頃から朱雀院が特にお召しなさいましたので、院が山寺にお移りになった後も又、この春宮に親しく参上なさり、心を寄せてお仕え申し上げておりました。御琴などを春宮にお教え申し上げるついでに、
「御猫たちが沢山集まっていますね。どこにいるのかな。私が見たあの猫は……」と尋ね、ついに唐猫を見つけなさいました。とても可愛らしく見えて、優しく撫でてみました。春宮も、
「本当に可愛い様子をしています。性質がまだ懐かないのは、私を見馴れぬ人と思うためか……ここにいる他の猫たちも、特に劣っているのではないけれど……」と仰いますと、
「これは……そのような人見知りを普通はしないものですが……中でも賢い猫は、自然とそんな心を持っているのでしょう」などと申し上げ、
「この唐猫より勝れている猫たちが、ここには何匹もいるでしょうから、私がしばらくお預かりして、慣らし申しましょう……」と申し上げました。心の中では、何とも馬鹿げた事を……とお思いになりましたが、遂には、この唐猫を手に入れなさいました。
夜もお側近くに置いてお寝すみになり、夜が明ければ、まず猫のお世話をして、撫でて育てなさいました。唐猫の人を遠ざける性質も、今はすっかり馴れて、ともすれば着物の裾にまつわりついて、傍に臥して甘えますので、心から可愛らしいと思われました。
大層ひどく物思いに耽って、端近くに寄り臥しておられますと、猫がやってきて「寝よう、寝よう……」と大層愛らしく鳴きますので、衛門の督は「ますます恋心がすすむ……」と微笑まれました。
恋ひわぶる人の形見と手馴らせば なれよ何とて鳴くねなるらん
(訳)恋しい人の残したものとして可愛がっていると、何故そのように鳴くのか…
これも前世の契りなのか……」と顔を見ながら仰ると、ますます愛らしく鳴きますので、着物の懐に入れて、物思いに耽っていらっしゃいました。女房たちは、
「不思議に、急に猫を可愛がるようになられたこと……このようなものはお好きでないご性格でしたのに……」と不審がりました。春宮から唐猫を返すようにお召しがあっても、返さずに独り占めして、この猫を話し相手にしておられました。
左大将の北の方(玉鬘)は、大殿の君達よりも右大将の君(夕霧)を、なお昔のままに親しく思い申し上げておいでになりました。玉鬘は才気あるご性格で親しみやすい方なので、夕霧にお逢いなさる時などにも、細やかに心隔ての様子もなく振る舞いなさいました。大将(夕霧)も、淑景舎などがよそよそしく近付きがたいお心遣いをなさいますのに、それとは少し違った親しみをもって、お付き合いしておられました。
夫君(鬚黒大将)は、今は以前にもまして、あの前の北の方(前妻)とはすっかり離れてしまわれ、この玉鬘を並ぶ者がないほど大切にしておられました。この方の腹には男の子達ばかりなので、物足りない……として、あの真木柱の姫君を引き取り、お世話したいと思われましたが、祖父宮がどうしてもお許しになりません。「せめてこの君だけは、世間の物笑いにならないように……」と、人にもよく そう仰っておいでになりました。
親王(式部卿の宮)の人望は大層高く、帝もこの宮へのご信頼はこの上ないもので、この事を……と奏上なさる事柄については、帝が背きなさることはできずに、大層お気遣いなさっておられました。式部卿はお人柄が現代風な宮ですので、この院(源氏)や大殿(太政)に次ぎ申す方として、人々もお仕えし、世間の人も重々しく見申し上げておりました。
大将(鬚黒)も将来、世の重鎮となられるはずの方ですから、姫君の評判などは軽くありません。求婚を申し出る人々は多くおられますが、式部の宮はご決定はなさらずに、この衛門の督のことを、
「もしその気配が見えたなら……」とお考えのようでした。けれども猫ほどには、この姫君を恋しくお想いにならないのでしょうか。全く思いもしないご様子なのは、残念なことでございます。
真木柱の母君が、不思議に今もなお変な人で、普通のご様子ではなく、廃人同様になっておられますのを、真木柱は大層残念にお思いになって、継母(玉鬘)をいつも心にかけて慕っておられました。現代風なご性格の方でございました。
蛍兵部卿宮はやはり独身のままお住まいで、熱心に想いを寄せていた方々には皆去られて、世の中も面白くなく、世間の笑いものにされたように思われて、
「私はこのまま甘んじてよいのか……」と、この真木柱に本気で言い寄りなさいました。これに対し式部卿の大宮は、
「どうしてお断りすることなどありましょうか。大切な娘を、帝に差し上げることの次には、親王たちにお見せするのがよいことです。臣下で身が固く平凡な人だけを、世間の人が賢いとみるのは、品のないことです……」等と仰って、蛍兵部卿の宮をさほど悩まし申すこともなく、求婚をお受けなさいました。宮は、
「あまり恋のかけひきがないのは、何か物足りないものだ……」とお思いになりましたが、大体が軽んじ難い家柄なので、言い逃れも出来ずに、真木柱のところに通い始めなさいました。
式部卿はこの上なく、姫宮を大切にお世話なさいました。大宮には女の子が大勢いらっしゃって、様々に嘆く折々が多いので、「女はもう懲り懲りだ……」とお思いでしたが、やはりこの真木柱のことが放っておけないと思えるようでした。
真木柱の母君は、不思議な変人にだんだんなっていかれました。大将(鬚黒)は、
「自分の言うことに従わないからと、真木柱を疎かに見捨てなさったようだが……誠にお気の毒なことである……」と仰って、お部屋の設え等をも、ご自分で奔走してお世話をなさいまして、万事にもったいないほど御心を尽くしなさいました。
蛍兵部卿宮は、お亡くなりになった北の方を、それ以後もずっと恋慕いなさいまして、内心、ただ、
「昔の北の方の面影に似ている女性のお世話をしたい……」とお思いになっておられました。真木柱のご容貌は悪くはないのですが、亡き北の方とは違った様子でいらっしゃいますので、残念にお思いになってか、お通いになるのは誠に億劫そうでした。
大宮は
「大層、心外なこと……」とお嘆きでございました。真木柱の母君も、変人になっておられましたが、正気の時には「口惜しく、何と嫌な世の中なのか……」と思い果てなさいました。
大将(鬚黒)も、
「やはりそうか……蛍兵部卿宮は大層浮気っぽい親王だから……」と、初めからこの結婚をご自分でお許しなさらなかったためでしょうか。大層不愉快にお思いでした。
尚侍の君(玉鬘)も、兵部卿宮の頼りない様子を、身近にお聞きになるにつけても、
「もし、私がそのような結婚をしたならば、源氏の君も父君も、どんなに思い悩みなさったことだろう……」などと、少し可笑しく、また懐かしく、思い出しておいでになりました。
「あの当時にも、蛍兵部卿と結婚することは思いも寄らなかったけれど……ただ優しく情愛深く語り続けてくださいましたのに、お応えしなかったので、がっかりして、軽率な者だと見下しなさったろうか……」と、長い年月、とても恥ずかしく思い出し続けていることなので、
「このように身近なところに居れば、私の噂をお聞きになることでしょうから、心遣いをしなければならない……」とお思いになり、こちらからも、真木柱のために然るべきお世話をなさいました。兄弟の君達などを差し向けては、宮のご夫婦仲など知らない顔をして、親しげにお側に伺わせたりなさるので、蛍兵部卿は心苦しくお思いになって、真木柱を見捨てる心はないようでございました。
けれど、大北の方(真木柱の祖母)という性悪な人が、いつも容赦なく恨み言を申しなさいました。
「親王たちはおっとりして浮気心もなく、せめて真木柱を愛して下さるのが、勢力のない者の慰めというものです……」と仰いますのを、蛍兵部卿も漏れ聞きなさいまして、
「まったく変な話だ。昔とても愛しく思った人を差し置いても、ちょっとした浮気はいつもしていたのだが、こうも厳しい恨み言は、今まで言われなかったものを……」と不愉快にお思いになり、ますます故人をお慕いになりながら、ご自邸に籠もって、物思いに耽っておいでになりました。
そうは言いながらも、二年も経ちますと、真木柱もこのような生活に馴れて、ただそのような夫婦仲としてお過ごしになりました。
はかなく年月も過ぎて、今上の帝が御即位なさって十八年になられました。
「次の帝となられる御子がなく、何とも物寂しく、世の中が儚く思われますので、気楽に逢いたい人に会い、私人として心のままに振る舞って、穏やかに暮らしたい……」と、長い間お思いになり、人にもそのように仰りなさいました。ところが最近になって、大層重く病みつかれましたので、急にご退位なさいました。
世間の人は、
「誠に惜しいことだ。盛りの御世に退きなさるとは……」と惜しみ嘆きましたけれど、春宮もすっかり成人なさいましたので、帝位をお譲りになりました。世の中の政治など、特に変わることはありませんでした。
太政大臣は致仕の表を奉って、ご引退なさいました。
「世間の無常によって、畏れ多い帝も御位を去られましたので、年老いた身が退位するのに、どうして惜しいことなどあろうか……」と仰って、左大将が右大臣になられて、世の中の政務をお勤めになりました。
女御の君(承香殿・春宮の母)は、このような御世を待たずに亡くなられましたので、春宮は帝の御位を得なさいましたけれど、日陰にいる心地がして、生きる甲斐もないように思われました。
六条の女御(明石女御)がお産みになった一の宮が、次いで春宮になられました。当然の事と以前から思っていましたが、やはり素晴らしく、目を見張るような事でございました。
右大将の君(夕霧)が大納言になられまして、右(鬚黒大将)は左にお移りになり、二人はますます理想的な間柄になられました。六条院(源氏)は、退位された冷泉院に後継ぎがおられないのを、御内心では、残念なこととお思いになりました。新しい春宮も同じ自分の血統ですが、冷泉院が酷く思い悩むこともなく、お過ごしになられましただけに、末の世まで罪(不義の御子であること)は隠されたままとなり、ただ皇位を伝えることができなかったことだけを、残念で物足りなくお思いでした。けれどもその罪は人に語り合えぬ事なので、気が晴れずにおられました。
春宮の女御(明石女御)には、御子たちが大勢いらっしゃって、ますます今上帝の御寵愛は、並ぶ者が無いほど深うございました。源氏(皇族の血筋)が引き続いて、中宮の位になられることを、世間は不満に思っているにつけても、冷泉院の后(秋好中宮)は、強いてこのように中宮にして下さった院の御心を思い、年月と共にますます、この上なく感謝申し上げておられました。
院の帝はお考えになっていたとおりに、御幸に、御身が窮屈なのにも拘わらず、六条院にお渡りなさいまして、御退位後も理想的なほど素晴らしい生活を送られました。
姫宮(女三宮)の御事は、帝が心尽くしてご配慮をなさいました。大方の世間の人々からも、何不自由なく重んじられておられますが、対の上(紫上)の御威勢には勝ることがおできになりませんでした。
年月が経つにつれ、源氏の君と紫上の御仲はますます麗しく、睦まじくなさって、少しの不満もなく心隔ても見せなさいません。けれども紫上は、
「今はこのような普通の生活でなく、出家をして、穏やかに経でもあげたいと思います。『この世はこれまで……』と見終えた気持がする年齢になりましたので、尼になることをお許し下さい……」と、度々真剣にお願い申し上げなさるのですが、
「それはあってはならないこと。私には大層辛いことです。私自身が出家を強く望んでいたけれど、貴女が後に残され、寂しくお思いになり、今までと違ったご様子になられるのが気がかりでしたので、思い留まり、今まで生き永らえているのです。私が出家を遂げた後に、貴女はお考えください……」などとお留めになりました。
女御の君(明石女御)は、この紫上を本当の親のようにお仕え申しなさって、御方(母・明石の上)は影の後見役として謙遜なさっているご様子こそ、かえって将来が頼もしげで素晴らしいことでございました。尼君も、ややもすれば、堪えられないほどの喜びの涙を落としながら、目を拭い、ただれてまで、『長生きした幸福者』という前例(世間の評判)となられました。
住吉の神に掛けた御願を果たすべく、院(源氏)は春宮の女御(明石女御)の御祈願に参詣をなさろうと、あの箱を開けてご覧になりました。中には実に様々な重々しい御願が多く入っておりました。 年事の春秋に奏する神楽には、必ず長き世を祈願した願文があり、なるほどこのような院の御威勢でなければ、果たすことができないと考えていたようで、入道がただ走り書きしたような文面ですが、学識が際立っており、仏神もお聞き入れなさるはずの言葉がはっきりと書かれていました。
「どうしてあの山伏の聖心で、このような事柄を思いついたのだろうか……」と感慨深く、分を過ぎたことだ……とご覧になりました。
「前世の宿世で、しばらくの間、仮に、身を窶した前世の修行者なのだろうか」などと思い巡らすと、入道をますます軽んじることはお出来になりませんでした。
この度の参詣は、入道の志を表に現すことはなさらずに、ただ院の物詣でとして御出立なさいました。須磨、明石の浦辺りで流離していた頃には、多くの御願を立て、皆、果たしなさいましたけれど、やはりこのような御威勢を示し、沢山の繁栄をなさるのを見るにつけても、住吉の神のご加護を忘れることは出来ません。この度は対の上(紫上)もお連れ申しなさって、ご参詣なさいまして、その騒ぎは大変なものでございました。
儀式を簡略にして、世間に迷惑にならないようにと心遣いなさいましたが、その設えに限りあることですので、目新しく煌びやかになさいました。
上達部も、大臣二人を都に置いていかれまして、その他は皆、お供として仕えさせなさいました。舞人には、近衛府の佐(中将) などで容姿がよく、背丈の同じ者ばかりをお選びになり、その選に漏れたことを恥として、悲しみ嘆いている芸熱心の者たちもおりました。
陪従(楽人)も、石清水や賀茂の臨時の祭などに召す者で、それぞれの道で特に優れた者ばかりをお揃えになり、それに加わった近衛府の二人も、世間に評判の高い者だけをお召しになりました。
御神楽の方には、大層大勢の人々がお供していました。内裏(帝)や春宮、さらに院の殿上人はそれぞれに分かれて、敬意を持ってお仕えしておられました。その数も知れず、いろいろと善美を尽くされ、上達部の御馬、鞍、馬添、随身、小舎人童、それ以下の舎人などまで飾り整えて、またとないほど見事でございました。
女御殿(明石女御)と対の上はひとつの御車に同乗されていました。次の御車には、明石の御方と尼君が忍んで乗っておられました。女御の御乳母も事情を知った様子で乗っていました。それぞれのお供の車は、対の上の御方が五台、女御殿が五台、明石の御一族が三台 、目も眩むほど美しく飾り立てた装束やご様子は言うまでもありません。
一方では、
「尼君は、同じことなら、老いの波の皺が延びるように、表立って立派に仕立てて参詣させよう」と、院が仰いましたが、
「この度は、このように大方の騒ぎに加わるのさえも遠慮されます。もし思い通りの世の中まで生き永らえてくれるのなら、それで十分でございます」と、御方(明石の上)は遠慮なさいましたけれど、余命が心配でありながら、もう一方では参詣 見たさで、一行について来られたのでした。前世からの宿世で、もともとこのように華やぐ高い身分の方々よりも素晴らしい運命だと、尼君ははっきり思い知ったご様子でございました。
十月二十日頃なので、神社の玉垣に這う葛も色変わりして、風の音にのみ秋を感じるのではなく、松の下紅葉など、すっかり秋の風情でありました。仰々しい高麗・唐土の楽よりも、耳馴れた東遊びは親しみやすく、波や風の音に美しく響き合って、木高い松風に吹きたてる笛の音も、他に聞く調べより一層身に染みて感じられ、琴に合わせた拍子も鼓なしで調子を整えている様子が、大袈裟でなく優雅で、ぞっとするほど素晴らしく、場所柄、大層素晴らしく聞こえました。
山藍で擦り出した竹の紋様の衣装は、松の緑に見違えるほどで、挿頭の花の色は秋の草と一体となって、何事も目が見間違うほど美しい様子でした。
「求子」が終わった後に、若い上達部は肩脱ぎしてお下りになりました。艶のない黒い袍衣に、蘇芳襲(黒みがかった赤)や葡萄染の袖を引き出したところ、深紅の袙の袂が、少し降り始めた時雨に濡れ、それは松原であることを忘れて、紅葉が散るのを連想させるようでした。誠に見映えのする姿で、白く枯れた萩を高々と挿頭に挿して、ただひとさし舞って入ってしまった姿が、誠に素晴らしく、飽きることがありません。
大殿(源氏)は、昔の侘び住まいの頃を思い出され、須磨に住んでおられた当時の有様も、目の前のことのように思われましたが、その頃の事を遠慮なく語り合える人もいないので、致仕の大臣を恋しく想い申し上げなさるのでした。中にお入りになって、二の車の尼君に、目立たぬように和歌を、
誰がまた心を知りて住吉の 神世を経たる松に言問ふ
(訳)私の他に誰が昔の事情を知って、住吉の神代からの松に便りを出すでしょう……
御畳紙にお書きになりました。尼君は感涙を流されました。この栄えある世を見るにつけても、あの明石の浦で「今は最後……」とお別れなさった頃、明石の上のお腹の中に女御の君がいらした時の様子などを思い出し、大層有り難い宿世の程をお思いになりました。
この世を背き出家された人(入道)をも恋しく、あれこれと物悲しく思われましたが、涙は不吉と思い直して、言葉を慎んで、
住江をいける甲斐ある渚とは 年経るあまも今日や知るらむ
(訳)住吉の浜を生きる甲斐がある渚だと、年老いた尼も今日知ることでしょう……
「遅くなっては都合が悪い……」と、ただ思い浮かんだままを、
昔こそまづ忘られね住吉の 神のしるしを見るにつけても
(訳)昔の事が忘れられません。住吉の神の霊験を見るにつけても……
尼君は独りつぶやきなさいました。
その夜は一晩中、楽を奏して明かしなさいました。二十日の月が遙かに澄み、海面が美しく見え渡るところに、霜が大層白く置いて、松原も白く見間違うほどで、全ての物が酷く寒々しい風情が素晴らしさを添えていました。
対の上は、いつも六条院の垣根の内にいらしたまま、季節毎の興趣ある朝夕の遊びに、耳に馴れ、目にも慣れておいでになりましたが、御門より外の見物を全くなさらず、ましてこのように都の外にお出かけになるのは、まだご経験がないので、総てが物珍しく興味深くお思いでございました。
住江の松に夜深く置く霜は 神の掛けたる木綿蔓かも
(訳)住吉の浜の松に夜深く下りた霜は、神様が掛けた木綿蔓でしょうか
篁の朝臣が「比良の山さえ……」と言った雪の朝を思いやると、大殿のご奉納の御志を神がお受けになった証だろうかと、ますます頼もしくお思いになりました。
神人の手に取り持たる榊葉に 木綿かけそふる深き夜の霜 (女御の君)
(訳)神主が手に持った榊の葉に、木綿を掛け添えたのは、深い夜の霜ですこと
祝子が木綿うち紛ひおく霜は げにいちじるき神の証か (中務の君・紫の上付きの女房)
(訳)神に仕える人々の木綿蔓と見違えるほどに置く霜は、神がお受けになった証
でございましょう。
歌は次々と数が分からないほど多くありましたが、どうして全て覚えておけましょうか。このような折節の歌は、例の通り、上手な男の方達さえも、凡作を出しては消えして、松の千歳を祝うという決まり文句より離れて目新しいことはないので、煩わしくて省略しました。(草子地)
夜がほのぼのと明けて行くと、霜はますます深くなり、歌の本末もはっきりしなくなる程、酔いすぎた神楽を奏する人などが、自分の顔がどんな風かも分からずに、夢中になっておりました。庭火も消えかかっているのに、なお「万歳、万歳」と、榊の葉を取り直してお祝い申し上げ、御世の将来の繁栄を思いやるのさえも、誠に目出度さの極みでございました。
全ての事が尽きせず素晴らしいまま、千夜の長さを一夜にしたいほどの夜も明けてしまったので、「帰路につくのも残念だ……」と若い人々は思いました。
松原に御車などが遙々と立て続けられ、風に靡く下簾垂の隙も、常磐の松陰に花の錦を添えたように見えました。袍の衣の色が御位の相違を示しており、見事な懸磐を取って、次々と食べ物を配って回る様子を、下人達は目を見張って立派だと思っておりました。
尼君の御前にも、浅香の折敷に青鈍の表を付けて、精進料理を差し上げるということで、人々は、「目の覚めるほど素晴らしい女性の運勢をお持ちの方」と、影でささやき合っておりました。
住吉に参詣された道中には、仰々しく煩わしいほどの奉納品が様々に、所狭いほどに置いてありました。一行は帰路、沢山の名所見物などの限りをお尽くしなさいましたが、それについて言い続けるのも厄介なので、省略いたしますが……(草子地)
このような御有様を見るにつけても、あの入道が人跡途絶えた山奥に入ってしまわれたことだけが、明石の上にも尼君にも物足りなくお思いでございました。山から下りることも難しいので、もしこの行列に同行したとしても、見苦しいことでありましょう……。世間の人は、これを前例として、高望みが流行りそうなご時世だと感じ、いろいろな事につけて、尼君のことを誉め驚き、世間の噂話の種として「明石の尼君こそ、幸福な人」と言っていたのでした。あの致仕の大殿の近江の君は、雙六 をうつ時の言葉として、「明石の尼君、明石の尼君」と言って、賽に祈ったのでした。
入道の帝(朱雀院)は、仏道に専念なさいまして、内裏の政事に一切、口出しなさいません。春秋の行事には、昔の事を思い出しなさることもありましたが、姫宮(女三宮)のことだけを、今もお忘れになることなく、この院(源氏)をなお、表向きの後見と思い申し上げなさって、今上の帝にも、内々の御心遣いをして下さるようにとお願いしておられました。
姫宮は二品(御位)になられまして、御封(封戸ー御位に応じて支給される戸)も増えましたので、ますます華やかに御威勢も加わりました。
対の上(紫上)は、このように年月が経つにつれて、姫宮があれこれ勝りなさるご評判に比べて、
「わが身はただ源氏の君おひとりの御扱いの御陰で、他の人には劣らないけれども、あまり年が積もれば、その御心遣いも終いには衰えるでしょう……。そのような時を見果てる前に、何としても出家をしたい……」と、ずっと思い続けておいでになりましたが、院に生意気だと思われるだろうかと遠慮されて、はっきり申し上げることはなさいません。内裏の帝でさえ、姫宮に特に御心を寄せておられますので、疎かな扱いだとお耳に入るのはお気の毒なことので、院が姫宮のところにお渡りになる回数が、だんだん紫上と等しくなっていくようでございました。
対の上は、
「そうなるのも無理はない……」と思いながらも、「やはりそうであったのか……」と思い乱れておいでになりましたが、素知らぬ素振りで、いつもと同じように過ごしていらっしゃいました。春宮のすぐ下の女一宮を、紫上方にお引き取りになって、大切にお育て申し上げ、女一宮をご養育することで、院がおられない退屈な夜の心をお慰めなさいました。どちらの宮と区別なさらずに、可愛い、愛しいとお思いになりました。
夏の御方(花散里)は、紫上がこのように、あれこれの御孫たちのお世話をなさることを羨ましくお思いになって、大将の君(夕霧)の典侍腹 (惟光の娘・五節の舞姫)の御子を是非にと迎えて、お世話をなさっておられました。その御子たちはとても可愛らしく、ご性質も年齢よりは大人びていらっしゃるので、大殿(源氏)は大層可愛がりなさいました。大殿は御子は少ないとお思いでしたが、末広がりで、あちらにもこちらにも、御孫達が大層多くなりましたので、今はただ此等を可愛がり、お世話なさることで、日々心慰めてお過ごしなさいました。
右の大殿(黒鬚)が参上して、六条院にお仕えなさる様子は、昔より親密さが増しておりました。今は北の方(玉鬘)もすっかり大人になられ、あの昔の色めいた事から思いが離れたのでしょうか。さるべき折にも玉鬘はおいでになり、対の上にもお逢いになって、望ましいお付き合いをなさっておいでになりました。
姫宮だけは、今も同じように若々しくおっとりとしていらっしゃいました。
大殿(源氏)は、
女御の君のことは、表面上、全てお任せ申し上げなさって、この姫宮を大層心にかけて、幼い娘のように可愛がりなさったのでございました。
朱雀院が、
「今は命の終わりに近づいた心地がして、何やら心細いので『もうこれ以上、この世のことは心配しない』と思い捨てたのですが、もう一度だけ女三宮との対面をしたいものだ。もし未練を残すことがあると困るので、大袈裟にならないようにおいで下さい……」と、姫宮にお便りなさいました。
「なるほど当然のことだ。このようなご意向が無くてさえ、姫宮から進んでお出かけなさるべきこと。ましてこのように院がお待ちになっていらっしゃるとは、お労しいことだ……」と、ご訪問の準備をなさいました。
「何かの行事の折でもなく、取り立てて趣向もなくては、どうしてお渡りになることができようか。どのような催しを準備して、朱雀院にお逢い頂こうか……」と思い巡らし、
「この度、五十に足りる年になられるので、若菜などを調じてお祝い申し上げることにしよう……」 様々な御法服のことや精進の宴のご準備などについては、何かと勝手の違う事なので、ご夫人方のお知恵などをも取り入れながら、お考えになりました。朱雀院は昔、ご出家前には、音楽の方面にご関心がおありでしたので、舞人、楽人などを特別に定めて、技の勝れた者だけを揃えなさいました。
右の大殿(鬚黒)の御子二人、大将の御子で典侍腹の子も加えて三人、まだ小さい七歳以上の子は皆、童殿上させなさいました。
兵部卿の宮の童孫王など、すべて然るべき宮家の御子たちや良家の御子たちなども選び出しなさいました。
殿上の君たちも、容姿がよく、同じ舞姿の中でも、特に見所があって素晴らしい人を選んで、多くの舞の準備をさせなさいました。大層なこの度の行事として、皆、心尽くしてご準備をなさいましたので、それぞれの道の師匠、名人達には忙しく、暇のない時期となりました。
姫宮はもともと琴の御琴を習っておられましたが、とても小さい時に、父院とお別れなさいましたので、気がかりにお思いになって、
「お逢いするついでに、あの御琴の音を是非、聞きたいものだ。いくら何でも琴だけは、上手になられたに違いない……」と陰で申しなさいましたのを、帝もお聞きになって、
「誠に、何と言っても上達なさったことでしょう。朱雀院の御前にてお弾きになる機会に、私も参上して聞きたいものだ……」と仰せになりましたことを、大殿(源氏)はお聞きになって、
「長い年月、機会があるごとにお教え申し上げてきましたので、上達はなさいましたけれど、まだ、父院にお聞かせするほど、味わい深い技法には達していらっしゃらない。何心もなく参上なさったついでに、琴をお聞きあそばしたいと、強くお思いになるならば、姫宮はきっと体裁悪い思いをなさることだろう……」と、可哀想にお思いになって、最近は特に熱心にお教え申しなさいました。
曲調の違う曲を二つ三つ、趣き深い大曲などで、四季につれて変化するはずの響きを、空気の寒暖によって音色で調えて、高度な技の限りを特別にお教えになりましたが、姫宮は心許なくいらっしゃいました。やがて、習得なさるにつれて、だんだんと上手になられました。
大殿(源氏)は、
「昼間は大層人の出入りが多く、弦を一度揺って音を出す技を、工夫する暇もなく気忙しいので、夜毎の静かな折に、琴の心をじっくりお教え申し上げようと、対の上にもお暇を申し上げて、明け暮れ琴をお教えなさいました。
女御の君(明石女御)にも対の上にも琴は慣わせなさいませんでしたので、この機会に、ほどんど耳馴れぬ曲をお弾きになりますのを、女御は聞きたいとお思いになって、わざわざ、有り得ない御暇を「ただ少しの間だけ……」と、帝に申し上げて、六条院においでになりました。
御子がお二人おいでになり、再びご懐妊のご様子で、五ヶ月ほどになられましたので、神事などに託けて、お里下がりをしておいでになりました。十一日を過ぎたら内裏に帰るようにと、何度もお手紙がありましたのに、女御はこのような機会にこそ催される、面白い夜毎の御遊びが羨ましくて、
「どうして院(源氏)は私に教えて下さらなかったのか……」と、恨めしくお思いでございました。
冬の夜の月を、人と違って、院は特にお好きなご性分なので、美しい雪の夜の光の下、季節の折々に合った技法などでお弾きになりました。お仕えする女房たちの中でも、少し琴を嗜んでいる者に、御琴などを弾かせて楽しみなさいました。
年の暮れ方は、対の上などはお忙しくいらっしゃいました。あちこちの正月の支度で、ご自身が気を配る事などもありますので、「春の麗らかな夕方などに、ぜひこの御琴の音を聞きたい……」と仰り続けるうちに、年が改まりました。
朱雀院の御賀は、まず今上帝が盛大に催されるであろうから、それと重なっては不都合だとお思いになって、大殿(源氏)は、少し時を遅らせなさいました。二月十日過ぎとお決めになり、楽人、舞人などが六条院に参上しては、絶えることなく管弦の遊びなどをなさいました。
「対の上がいつも聞きたがっている御琴の音を、他の女房たちの箏の琴や琵琶の音に合わせて、何とか『女楽』を試みたいものだ。ただ最近の楽の名手たちは、この六条院のご婦人方のお嗜みのほどには勝りません。私もきちんと伝授を受けた経験はほとんどないけれど、何とかして知らぬ事のないようにと、幼い頃から思ったので、世間のその道の師匠という者には全て、また高貴な家柄の然るべき人の伝えなどをも残さず受けてみたのですが、その中に、大層造詣が深く、こちらが恥ずかしい……と思われる程の名人はおりませんでした。その当時から、また最近の若い人々が、戯れに訳ありげに振る舞い過ぎるため、浅薄になったようです。御琴は学ぶ人がなくなってきてしまったとか……。貴女の琴の音ほどに、上手く習い伝えている人はほどんどありますまい……」と仰いますと、姫宮は無邪気に微笑んで
「このようにお認めくださる程に、私も上達したのか……」と、嬉しくお思いになりました。
姫宮は、 二十一、二歳ほどになられましたけれど、やはりまだとても幼げで未熟な感じがして、ほっそりと弱々しく、ただ可愛らしくお見えになりした。
大殿(源氏)は、
「父院にもお逢いにならないで、年を経てしまいましたが、『すっかり成人なさった……』と、ご覧頂けるように、お気遣いなさってお逢いなさい。」と、事にふれてお教え申しなさいました。
「誠に、このような六条院の御後見がなくては、この宮の幼稚なご様子は隠しようもない……」と、女房たちも拝見しておりました。
正月二十日ほどになり、空も美しい頃、少し温かい風が吹いて、御前の梅も盛りになってきました。大方の花の木なども蕾が膨らんで、一面に霞んでおりました。
「月が経てば、御賀の準備も近くなり、何かと物騒がしくなるだろうから、合奏する御琴の音についても、試楽のように、人々がいろいろ言うだろうから、今この静かな時に合奏を試してご覧なさい」と仰って、姫宮の寝殿に対の上をお迎え申しなさいました。
お供として、我も我もと女房たちが合奏を聞きたがって参上したがりましたが、音楽に疎い者は選び残しなさって、少し年輩でも楽の嗜みのある女房だけを選んで、お供に仕えさせなさいました。
童べは器量のよい四人。赤色の表着、桜襲の汗衫・薄色の織物の袙・浮紋の上の袴に、紅の打ってある衣装で、その容姿や態度の優れている者たちだけをお呼びになりました。
女御の御方(明石女御)も、年の改まる頃なのでお部屋の設えなどは格別に曇りなく、女房たち各々は競い合って華美を尽くし、色鮮やかな装いで、またとなく素晴らしい様子でした。
童は青色に蘚芳の汗衫、唐綾の袴・袙は山吹色の唐綺をお揃いでお召しでした。
明石の御方の童たちは仰々しくなく、紅梅襲が二人、桜襲が二人、残りは青磁色ばかりで、袙は濃薄の紫、打ち目の模様が何とも言えない素晴らしい着物を着せなさいました。
宮の御方でもこのようにお集まりになることをお聞きになって、女童の容姿だけは、特別に整えなさいました。青丹に柳襲の汗衫、葡萄染の袙など、特別に趣向を凝らして、目新しい様子ではないけれど、雰囲気が上品で気高いことまでが、並ぶ者がないほど素晴らしくございました。
廂の中の御障子を取り外して、あちらこちらと御几帳だけを境にして、中の間には、院(源氏)がお座りになる御座が設けてありました。院は、
「今日の拍子を合わる役には、童を呼ぼうか……」と仰って、右の大殿の三郎、尚侍の君の御腹の兄君に笙の笛、左大将の御太郎君に横笛を吹かせて、簀の子に伺候させなさいました。
内側には御褥などを並べて、御琴などを御婦人方にお渡しになりました。美しい紺地の袋に入れてある秘蔵の御琴などを取り出して、明石の御方には琵琶、紫上に和琴を、女御の君には箏の御琴を、そして姫宮(女三宮)には、
「このような仰々しい琴は、まだ弾くのは難しいかと心配なので……」と、いつもの手馴れておられる御琴を調弦してお渡しになりました。
「箏の御琴は弛むという訳ではないけれど、やはりこのように合奏する時の調子によっては、琴柱の位置がずれてくるものだ。よくその点を知り整えるべきなのだが、女性は弦をきつく張ることは出来ないから、やはり大将(夕霧)を呼んで、付き添わせよう。この笛を吹く者たちも、未だ大層幼げなので、拍子を整えるには頼りにならない……」とお笑いになって、
「大将をこちらへ……」とお呼びになりましたので、ご婦人方は恥ずかしく思われ、緊張していらっしゃいました。明石の君を除いては、いづれも捨てがたい御弟子たちなので、
「大将がお聞きになるので、悪いところがないように……」とお気遣いなさいました。
明石の女御は、常に今上の帝がお聞きになるにつけても、楽器に合わせながら箏を弾き馴れていらっしゃるのでご安心だけれど、和琴こそは、大した音色ではないけれど、奏法に決まり事がないので、かえって女性には弾き難いものだ。あの琴の音は、皆で合奏して聞くものなので、乱れるところも出てくるのか……」と、気がかりにお思いになりました。
大将(夕霧)は大層緊張なさり、御前での仰々しく見事な御試楽よりも、今日の心遣いは格別に勝っているとお思いになり、鮮やかな御直衣に香の染みた御衣裳の袖に大層香を焚きしめて、身繕いして参上なさる頃には、日はすっかり暮れ果てました。
黄昏時の空のもと、去年の美しい古雪を思い出される程、枝も撓むばかりに、花が咲乱れていました。緩やかに吹く風に、かすかに匂う御簾の内の香を吹き合わせて、鶯を誘う手引きにできそうな素晴らしい御殿の辺りの匂いがします。大殿(源氏)が御簾の下より箏の御琴の端を差し出して、
「失礼なようだけれど、この箏の弦を調節してみてください。ここには親しくない人は入ることができないので……」と仰いますと、夕霧は畏まって、御琴をお受け取りなさいました。大層心遣いをなさっておられますので、皆、安心なさり、「壱越調」の音の発の緒を立てて、直ぐにはお弾きにならず、控えておいでになりました。
「やはり音合わせには、一曲位弾いて下さい。興を削がれない程度に……」と促しなさいますと、
「まったく、今日の弦の催しのお相手として、お仲間に入れるほどの技量もありませんので……」と、思わせぶりな態度をなさいました。大殿は、
「当然の事だが、女楽の相手もできずに逃げた…と、世間に伝わる噂こそ不名誉なことだよ……」と言ってお笑いになりましたので、調弦を済ませて、見事に調子合わせだけを弾いて、御琴を差し上げなさいました。
この御孫の君達がとても可愛らしい宿直姿で、笛を吹き合わせている音色は、まだ幼い感じだけれど将来性があって、大層素晴らしいものでした。
それぞれの御琴などの調弦が終り、御婦人方が合奏なさる頃、いずれとも優劣つけがたい中に、明石の上の琵琶は、特別に勝れて上手で、神々しいほどの奏法、音色が澄みきって素晴らしく聞こえました。
紫上の弾く和琴に、大将も耳を留めなさいますが、その優しい愛敬づいた爪弾きに、掻き返した音色が珍しく今風で、最近の名人たちの物々しく掻き立てた曲や調子に劣らず、華やかで、
「大和琴にも、このような弾き方があるのか……」と驚かされました。紫上の深い嗜みのほどがはっきり分かって素晴らしいので、大殿はご安心なさって、またとない方だ…」とお思いなさいました。
箏の御琴は、他の楽器の音の合間に心許なく漏れ聞こえる音色なので、美しげに上品にのみ聞こえました。
女三宮の琴はやはり未熟ではありますけれど、まだ習っている最中なので、辿々しいことはなく、大層よく響き合って、
「上手になられた御琴の音色だなぁ……」と、大将はお聞きになり、拍子をとって唱歌なさいました。院も時折、扇を打ち鳴らして、ご一緒に歌唱なさいました。その御声は昔よりも遙かに素晴らしく、少し太く、堂々とした感じが加わって聞こえました。大将も声がとても優れた方で、夜が静かになっていくにつれて、言いようもなく魅力的な夜の催しとなりました。
月の光が心許ない頃なので、燈籠をあちらこちらに掛けて、灯りを心地よい程度に灯させなさいました。宮の御方(女三宮)のご様子をお覗きになりますと、他の人より一層小さく可愛らしげで、ただ御衣のみがあるように見えました。艶やかな美しさは劣りますが、ただとても上品に美しく、二月の二十日頃の青柳がわずかに枝垂れ初めたような感じがして、鶯の羽風にも乱れてしまいそうな程に、弱々しくお見えになりました。桜襲の細長に御髪が左右から溢れかかり、柳の糸のようでした。
「この姿こそは、この上ないご身分の方の御様子というものだ」と見えました。
女御の君(明石女御)は、宮と同じように優雅なお姿で、もう少し彩が加わって、態度や雰囲気が心憎いほど風情のあるご様子をなさっていて、美しく咲きこぼれた藤の花が夏に咲きかかって、他に並ぶ花がない、ほんのり明ける朝のような感じがしていました。
とは言え、ご出産を控えて、とてもふくよかな頃になられましたが、ご気分も優れない頃でしたので、御琴も押しやって、脇息に寄り掛かっていらっしゃいました。華奢で弱々しくいらっしゃいますが、それは普通の御脇息なので、大きすぎる感じで、
「特別に小さく作らせたいものだ」とご覧になり、とても可愛らしくお見えになりました。
紅梅の御召し物に御髪がかかってはらはらと美しく、燈籠の灯に映された御姿は、この世にないほど美しくいらっしゃいました。
紫上は葡萄染でしょうか。色の濃い小袿に薄蘇芳襲の細長に御髪のたまっている様子がたっぷりとゆるやかで、背丈などちょうど良い位で、姿形は理想的です。辺り一面に美しさが満ちたりている心地がして、花と言ったら桜……やはり他より特に勝れたご様子でいらっしゃいました。
このような方々の中では、明石の上は圧倒されるように思われますが、全くそのようなことはなく、態度なども自然とこちらが恥ずかしくなるほど素晴らしく、心の底を知りたいほど美しく、何となく上品で優雅に見えます。柳の織物の細長に、萌葱(萌黄)でしょうか。小袿を着て、薄物の裳を見立たないように引きかけて、特に控えめな雰囲気ですが、女御の母君を思うせいもあって、ご立派で軽んじられないご様子でございました。
高麗の青地の錦で縁取りした茵(敷物)に、正面に座らず、琵琶をちょっと置いて、ただほんの少しだけ弾きかけて、しなやかに使いこなす撥の扱いが、音を聞くよりも又、比べようもなく親しみやすい感じがして、五月を待つ花橘の花と実のついた枝を押し折ったような薫りに思われました。
ご婦人方の、打ち解けないご様子などを見聞きなさり、大将(夕霧)も大層御簾の内を知りたいとお思いになりました。
対の上(紫上)が、昔、野分の折に垣間見た時より、年を経て美しくなられた様子が知りたいと思い、心は落ち着きません。さらに、
「もう少し高い運勢であったなら、この宮(女三宮)をわが妻としてお世話できただろうに……。私の性格が緩かったのが悔しいことだ。朱雀院は度々、私がその気になるようにと、内々で仰っていたのに……」と少し残念に思いましたが、姫宮が少し軽率な方に思えるので、軽く見ることはないけれど、少しも心を動かすことはありませんでした。
この御方(紫上)には、何事にも思い及ぶ術もなく、遠く手の届かない方として、長い年月が過ぎましたので、
「どうにかして、ただ義理の親子として、好意を寄せていることをお知らせしたいものだ……」とだけ、口惜しく嘆かわしく思っておりました。けれども強いて、あってはならない大それた考えなどはおありでなく、ただ恋心を抑えて振る舞いなさいました。
夜が更けゆく様子は、冷ややかな感じで、臥待の月が僅かに差し出しました。
「頼りない光だ。春の朧月夜よ。秋の風情は、この楽器の音色に虫の声を合わせるのが、この上なく素晴らしさが加わる心地がするようだ…」と仰いますと、大将の君は、
「秋の夜の曇りなき月には、全ての物がはっきりと見え、琴・笛の音も明るく澄んだ心地がするけれど、やはり殊更に、作ったような空の様子や、草花の露にも目移りがし、気が散って……、秋の趣きには限りがございます。春の空の心もとない霞の間からさす朧な月影に、楽の音を静かに合わせる様子には、どうして秋の夜は及びましょうか。笛の音なども、秋には優雅に澄んで消えていきます。『女性は春をあはれぶ……』と、昔の人の言葉が残っていますが、確かにそのようでございます。優しい楽の音が調和することは、春の夕暮れこそ格別優れております……」と申しなさいますと、
「いや、この結論は、昔から皆が決めかねていた事だから、末の世で、楽才の劣った者には決めることができないだろう。楽の調べや曲目などは、なるほど律を二の次のものにしているが、そういうことだろう……」などと仰って、
さらに
「どうだろうか。現在、楽器の名人と評判の高い人々が、帝の御前などで、度々弾かせなさいますと、優れた名人は数少なくなったように思われるが、その上に立つ優れた名人なども、少しも技法を習得していないのではないのだろうか。このように音楽について、心許ない女性たちの中に入って弾いていたとしても、格別に優れているとは思えない。長い年月、世間から離れて過ごす間に、私は耳なども少し衰えたのだろうか……残念な事だ。不思議なことに、人の才能とは、少し習い覚えた芸事でも、見映えして勝る所である。御前での管弦の遊びなどに、名人として選ばれた人々が、誰彼と比べたらどうであろうか……」と仰れば、
大将(夕霧)は、
「それをこそ、申し上げようと思っておりました。けれど、音楽の道に明るくないのに、偉そうに言うのもどうかと思いましたので……さかのぼって、昔の世を聞き比べていないからでしょうか。衛門の督の和琴、兵部卿宮の御琵琶などこそ、最近の珍しい例として引き出すようです。
誠に、この二人は比べる者がないほどの演奏家なのですが、今夜お聞きしました御婦人方の楽の音は、皆、等しく素晴らしいものです。けれど、それはやはり特別でない御催しと、私があらかじめ思い申し上げ、油断していた心が騒ぐのでしょう。それにしても……唱歌などはとても唱い難くございました。
和琴は、あの前太政大臣だけが、このような折につけて、思うままに弾き合わせなさるのが、大層格別でございました。和琴はなかなか際立って優れて弾けないものですのに、紫上は、大層見事に整っておりました……」とお褒め申し上げました。大殿は、
「大層、そんなに大袈裟に褒める程でもないけれど……特別に立派に褒めなさるね……」と仰って、得意顔にて微笑みなさいました。
「なるほど皆、悪くはない私の弟子たちである。明石の上の琵琶は、私が口出すべきことが何もないけれど、弾き方が異なるようだ。思いがけず明石の浦で初めて聞いた時に、珍しい楽の音色だと思えたけれど、その頃よりは又、一層上手になられた……」と、自分の手柄のように自慢なさるので、女房などは、そっと突きあっておりました。
「何事も各々、その道について学ぶならば、才能というものはどれも限りなく思われ、自分の気持ちに満足する限度はなく、習得するのは大層難しいけれど、どうしてか、その道を究めた人が、今の世にはほとんどいないので、その一部分だけでも難なく習得した人は、その一面だけで満足しているに過ぎない。しかし琴こそは、やはり煩わしく手の触れ難い楽器である。この琴は、本当に古来のとおりに習得した昔の人は、天地を靡かせ、鬼神の心を和らげ、すべての楽器の音がこれに従って、悲しみ深い者も喜びに変わり、賤しく貧しい者が高貴な身分に改まり、財を得て、世に認められるといった人が多かったのである。
わが国に、七弦琴を弾き伝え初めた頃、この事を深く理解している人は、長い年月を見知らぬ国で過ごし、命をかけて、この弾き方を習得しようと苦心してさえ、習得するのは難しいことであった。確かに、空の月や星を動かし、時ならぬ霜や雪を降らせ、雲や雷を騒がした例が、昔の世にはあったことだ。
このように七弦琴は限りない楽器で、伝法どおりに習い取る人は滅多になく、世の末だからでしょうか。どこにその当時の一部分でも伝わっているというのだろうか。けれどなお、あの鬼神が耳を留め、耳を傾け初める楽器だからであろうか。中途半端に練習して、思いが叶わなかったという例があってからは、これを弾く人が不幸になる…という難癖をつけて、面倒なので今はほどんど、弾き伝える人がいないというのは、誠に残念なことである。
琴の音を離れて言えば、どの弦楽器をもって、その音律を整える基準とできようか。本当に万事のことが衰えてゆく様子は、たやすくなりゆく世の中で、独り国を離れて、志を立てて、唐土・高麗と、この世をさまよい歩き、親子と別れることは、世の中の偏屈者となってしまうだろう。何とかしてそれほどまでせずに、この道を理解する手がかりでも、知っておいた方がよいだろう。ひとつの調べを弾きこなすことさえ、量り知れない難しいものであるようだ。いわんや多くの調べは、難しい曲が多いが、私が七弦琴に夢中になっていた頃には、この世のあらん限りの日本に伝わる楽譜すべてを、見比べて、後には、師匠とすべき人もなくなるまで、この道を学んだけれど、やはり昔の名人には敵わない。まして、後世に私の秘法を受け継ぐべき子孫もないのが、大層寂しいことだ」と仰いますと、大将は「誠に残念で恥ずかしい……」とお思いになりました。
「この御子たちの中に、理想的に音楽の才能を持って、成長なさる方がおいでになるなら、私がその世に命永らえ生きている限りは、どれほどでもない私の技の限りを、御子たちに伝えたいものです。明石女御の三宮(匂宮)には、今からその才能がありそうに見えなさいます……」などと仰いますと、明石の君は誇らしくお思いになって、涙ぐんで聞いていらっしゃいました。
女御の君は箏の御琴を紫上にお譲り申し上げて、寄り臥しなさいましたので、和琴を大殿の御前に差し上げて、寛いだ音楽の御遊びになりました。「葛城」を演奏なさいました。それは華やかで素晴らしく、大殿が繰り返しお歌いになったその御声は、例えようもなく魅力的で美しいものでした。
月がだんだんと昇るにつれて、花の色香も一層引き立って、誠に優雅な頃となりました。箏の琴を弾く女御の御爪音は、大層気品があって優しく、母君のご奏法も加わって揺の音が深く、大層澄んで聞こえましたけれど、紫上のご奏法は、また様子が違って、ゆったりと美しく、聞く人はただならず気が浮き立つほど魅力的で、輪の手などすべてが、大層才気あふれた御琴の音色でした。
返り声に全ての調子が変わって、律の合奏の曲などが親しみ深く今風に洒落ていました。琴の琴は、五個の調べを、沢山ある弾き方の中で、心を留めて必ずお弾きになる五、六の撥を、姫宮は大層美しく音色を澄ましてお弾きになりました。誠に完璧で大層良く澄んで聞こえました。
春・秋どの季節の物にも調和する調べなので、心を込めてお弾きになりました。その御心配りは、大殿(源氏)がお教え申し上げたものと違わず、大層良く習得なさいましたので、大殿はとても可愛らしく、晴れがましくお思い申し上げなさいました。
この若君たちが笛を大層可愛らしく吹き立てて、一生懸命心を込めているのを、可愛らしいとお思いになって、
「眠たくなっているだろうに……今宵の遊びは長くならないよう、少しだけと思っていたのに……、止めるに惜しい楽の音が優劣つけがたく、聞き分けるほどに耳が良くないので、ぐずぐずしている内に、夜もすっかり更けてしまいました。子供たちへの気配りが足りなかった……」と、笙の笛を吹く君に御杯を差しなさいまして、御衣を脱いで褒美としてお与えになりました。横笛の君には、紫上より織物の細長に、袴などを添えて、大袈裟にならぬように形ばかりとしてお与えになり、大将の君(夕霧)には、姫宮の方より杯を差しだして、宮の御装束一式を差し上げなさいますので、
大殿は、
「妙なことだね。音楽の師匠の私こそ、まずはお誉め下さってよいものなのに……情けないことだ」と仰るので、宮のおられる御几帳の端から、御笛を差し上げなさいました。大殿は微笑みなさって、お受け取りなさいました。それは大層素晴らしい高麗の笛でした。大殿がこれを少し吹き鳴らしなさいますと、皆は退出なさるところでしたのに、大将が立ち止まり、御子息がお持ちの笛を取って、大層素晴らしく吹き合わせなさいました。音色が誠に美しく聞こえ、いづれの方々も皆、大殿の奏法を受け継がれて、又とないほど素晴しいので、我が才能のほども滅多にない…と思われなさいました。
大将殿は、若君たちを御車に乗せて、月の澄む中を退出なさいました。道すがら、箏の琴が普通と違って、大層素晴らしく、その音色が耳に付いて離れませんので、紫上を恋しく思い出しなさいました。ご自分の北の方(雲居雁)は、故大宮が琴をお教え申しなさいましたけれど、心に染みるほどに上達なさらないうちに別れてしまわれ、充分にゆっくり習得なさいませんでしたので、夫君の御前では恥ずかしがってお弾きになりません。何事もただおおらかに、おっとりした様子で、子供の世話を暇もなく次々となさいましたので、風情も無い……とお思いになりました。そうは言っても、機嫌を悪くして嫉んだりするところは、愛敬があって、可愛らしいご性格でいらっしゃるようです。
院(源氏)は東の対へお渡りになりました。紫上は姫宮のもとにお残りになって、物語などをお聞かせ申しなさって、暁方に対へお帰りなり、日が高くなるまでお寝すみになりました。院が
「姫宮の御琴の音は大層上手になられましたが、貴女はどうお聞きになりましたか」とお尋ね申しなさいますと、紫上は、
「初めの頃、宮方で少し聞きました時には、どんなものかと思いましたけれど、とても、またとなく上手になられました。貴方があのように熱心にお教え申し上げたのですから……」とお答えなさいました。
「そうなのです。手を取るように……私は頼りになる師匠なんだよ。七弦琴は、他のどのご婦人にも、煩わしく手がかかることなのでお教え申さなかった。けれども朱雀院にも帝にも『琴の琴は、それにしてもお教え下さるだろう……』と聞くのがお労しく思われ、せめてそれ位のことはしてさしあげよう……。私を御後見(夫)になさった甲斐があったと、思し召しくださるのならばと、思い立って……」と申しなさるのに続けて、
「昔、貴女がまだ幼かった頃には、私がお世話したものだが、その頃には暇もなく、心のどかに楽器をお教え申すこともなかった。近頃になって何となく、次々取り紛れながら日を過ごしていて、聞いてあげもしなかったお琴の音色が、素晴らしい出来映えであったというのも、面目ありと誇らしく思えました。大将が大層首を傾け感嘆していた様子も、思いどおりで嬉しいことであった……」などと申しなさいました。
紫上は、このような音楽の方面にも、今は又、年輩者らしくなられ、御孫の若宮たちのお世話などもなさって、至らぬところもなく、全て何事につけても、非難されるような頼りにならないこともありません。世にも稀なご様子の方なので、本当にこのように万事を身につけている方は、長生きなさらない例もあると言うので、不吉なまでにお思いでございました。院は様々な女性の様子をご覧になっているため、「紫上の如く、万事を取り集め、不足がないのは誠に例がない……」とお思いでした。
紫上は、今年三十七才(厄年)になられました。紫上をお世話申し上げた年月のことなどをしみじみ思い出しなさいましたついでに、厄払いの御祈祷など、普段よりも格別になさいまして、
「今年は何事もご用心なさいませ。何かと忙しくばかりあって、思い至らぬ事もあるだろうから、一層貴女も心遣いしてください。大きな仏事をなさるのならば、私の方でさせましょう。故僧都が亡くなられたことが、大層残念なことです。何かの御祈祷をお願いするにも、大層立派な方であったのに……」などと仰いました。さらに、
「私は幼い子時より、人と違って大層な育ち方をして、今の人望や有様は過去にも類がないものであった。けれどまた、一層悲しい目に遭ったことでも、人には勝っていたようです。
まずは、私を思ってくれる人たちに先立たれ、この世に残された晩年にも、酷く悲しく思うことが多くありました。情けなく、あってはならない事(継母との恋など)についても、妙に物思いが絶えず、心に不満に思われることがいつもこの身に添い過ごしてきたので、それに代えて、思っていたよりは、今まで命永らえていると、思わずにいられません。
貴女には、昔、須磨流離による別れより他には、あれこれ物思いして心乱しなさることはなかったと思います。后と言っても、それより下の位の人は、高貴な人であっても皆、必ず、不安や物思いが添うものです。女御更衣などとして出仕するにつけても、心乱れたり、人と争う思いの絶えないことも、楽なことではないから、親元での生活のように過ごすような気楽なことはありません。その点では、人より優れた運命だと、ご自分でもお分かりでしょうか。
思いの他に、この姫宮が、このように降嫁なさいましたのこそ、何とも辛いことでしょうけれど、それについては、一層勝る私の愛情の程を、ご自分のことですから、お気づきでないのかも知れませんが……物の道理をよくお分かりのようですから、きっとお分かりになっていると思います……」と申しなさいますと、紫上は、
「仰せのように、私のような儚い身の上には過ぎた事だと、世間には思えるでしょうけれど、心には、堪えない嘆きばかりがつきまといますのは、私自らの願いなのでしょうか……」と、言い残したことが多いようなご様子なのは、奥ゆかしげでございました。
「本当に、私は老い先も長くない心地がしますのに、今年もこのように厄年を素知らぬ顔をして、過ごしているのは、大層不安なことでございます。以前にも申し上げました事(出家)を、何とかお許しくだされば……」と申し上げなさいました。
「それこそ、とんでもないこと。そのように貴女が出家なさって、離れてしまわれた世に、この私が一人残って、何の生き甲斐がありましょう。ただこのように、何となく過ぎていく年月だけれど、貴女と明け暮れ、心隔てのない嬉しさこそ、私にはこれ以上のことはないと思われるのです。やはり他と違って、貴女を想うわが愛情がどれほど深いものであるかを、最後まで見届けてください」とばかり申しなさいますのを、
「また、いつものこと……」と紫上は辛く涙ぐみなさいますご様子を、大層愛しいとご覧になって、いろいろお慰め申しなさいました。
「多くはないけれど、女性の人柄が、それぞれに取り柄のないものと分かってゆくにつれ、貴女のように、気立てがよく落ち着いた人こそ、見つけるのは難しい」と思うに至りました。
大将(夕霧)の母君を、幼かった頃に初めて妻とし、身分が高く別れる事の出来ない人と思ったのに、常に仲良くはなく、打ち解けないまま終わってしまったのが、今思えば、いとおしく残念に思います。又、「自分ひとりの罪だけではない」などと、私の胸ひとつに思い出され、ご立派で重々しく「そこが物足りない……」と思うこともなかった。ただあまりに乱れたところがなく、几帳面で、少し賢すぎると思えるのは、頼りに思い暮らすのには、煩わしい人柄であったのです。
秋好中宮の御母君の御息所は、人より優れて、特に心深く雅やかな人の例としては、まず第一に思い出されるけれど、逢うのには気が置けて、気苦労するところがありました。私を憎むことも無理ないと思われることを、そのまま長く思い詰めて、深く怨まれたのは、大層辛いことでした。
気を許すことなく気詰まりで、自分も相手もゆっくりとして、朝夕の睦まじく語らうには、とても気の置けるところがあったので「打ち解けると、見下されるのでは……」と、あまりに体裁を繕っているうちに、やがて疎遠になってしまった仲でした。
大変良くない評判をたて、ご身分も軽々しくなってしまった嘆きを、大層思い詰めてしまわれたのがお気の毒で、本当に御息所の人柄を考えても、私に罪がある心地がして終わってしまいました。
その罪滅ぼしとして、御娘をこのように中宮(秋好中宮)になるべき前世からの因縁とは言いながら、取り立てて、世の評判や人の恨みをも素知らぬふりで、お世話申し上げました事を、あの世から御息所が、見直しておられることでしょう。今も昔も、いい加減な心の戯れのために起こった、お気の毒なことや後悔することが多くあるのです……」と、過去の女性のことを、紫上に少しずつお話になって、
「内の御方(明石女御)の御後見(明石の上)は、大した身分の方ではないと、初めから見下して、気楽に思っていたが、今なお、心の底が見えないほど限りなく心深い人でした。表面は人に靡き、おっとりと見えながら、打ち解けない所が下にあって、何となく気詰まりのところもありますが……」と仰いますと、
紫上は、
「他の方はお逢いしたことがないので知りませんが、明石の上は、はっきりではないけれど、自然とご様子を見る機会もあったので、大層打ち解けにくく、気詰まりなところがはっきり分かるにつけても、例えようのないほど単純な私を、どんな風にご覧になるのかと気が引けますが、女御は自然と私の心をお許し下さるだろうとだけ思っております」と仰いました。あれほどはっきり心置いておられた明石の上を、今はこのように心許してお逢いになるなどなさいますのも、女御の御ためを思う真心なのだろう…と思われ、とても又とないことなので、
「貴女こそは、やはり心行き届かないことのないものの、人や事情によって、とても上手に二筋(憎しみと親しみ)を遣い分けしておられます。多くの女性たちを見てきましたけれど、貴女に似た人はいませんでした。格別に素晴らしくいらっしゃいます。」と微笑んで申し上げなさいました。
「姫宮(女三宮)のところに行って、大層上手に七弦琴の技を習得なさった事のお祝いを申し上げてこよう……」と、夕方になってお渡りになりました。自分を心にかけてくれる人があるとは思いもせず、姫宮は大層幼く一途に御琴に熱中しておいでになりました。
「今は私にお暇を下さって、休ませて頂きたいものです。楽の師匠は気がすむようにさせてこそです。とても辛かった日頃の成果があって、安心できるほどに上達なさいました……」と仰って、御琴などは押しやってお寝すみになりました。
対の上は、いつものように、大殿のおられない夜には夜更かしをなさって、女房たちに物語などを読ませて、お聞きになりました。
「このように世間の例として引き集めた昔語りを見ても、不誠実な男、色好み、二心ある男に関係した女などを語り集めた中にも、男は最後には、頼りとなる所に落ち着くもののようです。不思議なことに、私も浮いたまま過ごしてきたこと……。誠に、院の仰るように、私は人と異なる幸せな宿世である身の上ながら、世間の女の耐え難く満足できない悩みがつきまとう身のまま、一生を終わろうとするのか。情けないことよ……」などと思い続けて、夜更けてお寝すみになったその明け方頃から、御胸を病み、大層お苦しみなさいました。
女房たちが看病して「大殿にお知らせしよう……」と申し上げますと、
「それはとても不都合な事……」と制止なさいまして、耐え難き痛みを抑えて、夜を明かしなさいました。紫上の御身体は熱があって、御気分がとても悪いのですけれど、院がお帰りにならない間には、ご様子をお知らせ申し上げません。そんな時、ちょうど女御の御方よりお便りがありましたので、
「このように苦しくて……」と申しなさいますと、女御は驚いて、院にお知らせ申しなさいました。院は胸が潰れる思いがして、急いでお帰りになりました。
紫上は大層苦しげにしておられます。
「どんな具合ですか」と手で探りなさいますと、大層熱っぽくいらっしゃるので、昨日申しなさった厄年のご用心なさるべき事などを思い合わせて、誠に恐ろしくなられました。御粥などをこちらで差し上げなさいましたが、紫上はご覧にもなりません。院は一日中側に付き添って、万事に看病なさり、お嘆きなさいました。けれどもちょっとした御菓物でさえ、気が進まないご様子で、起き上がることは全くなくなって、日々が過ぎていきました。
「一体どうなるのか……」とご心配なさり、御祈祷などを数知らず始めさせなさいました。僧をお呼びになり、御加持などもおさせになりました。紫上はどこというところもなく、ただ酷くお苦しみになり、胸には時々発作が起こり、お苦しみになるそのご様子は、堪えきれないほどでございました。
様々ご用心なさることは数限りないのですが、回復のご様子もありません。ご重篤と見え、自然と快方に向かうご様子があらば、少しは頼もしいのですけれど、大層心細く悲しい…とご覧になって、他の事をお考えになれないので、朱雀院の御賀の騒ぎも静まってしまいました。
あちらの院からも、紫上が病気になられたことをお聞きになって、お見舞いや丁重なお手紙などが度々ございました。
同じようなご容態のまま、二月も過ぎました。院(源氏)は言葉にならないほどお嘆きになって、
「試しに、住まいを変えてみよう……」と二条院に、紫上をお移しになりました。
院の中は揺れるような大騒ぎになり、嘆き悲しむ人も多くありました。
冷泉院もこれをお聞きになり、大層嘆かれました。
「この方がお亡くなりになれば、院も必ず出家という御本意をお遂げなさることだろう……」と思われますので、大将の君(夕霧)なども、心尽くして看病をなさいました。御修法などは大体のものはもとより、特別のものも選んでおさせになりました。少し意識のある時に、紫上は、
「兼ねてからお願い申し上げた出家を、お許し下さらないのは、とても辛いこと……」と、お恨み申しなさいましたが、死に別れるよりも、目の前で自らの意志で尼となり出家する様子を見るのは、更に一時堪えられず、惜しく悲しいことだろう……」と思えますので、
「昔から、私こそ出家の本意は深かったのだが、この世に貴女が残り、寂しくお思いになるだろうと気の毒に思い、出家に心惹かれながらも日々過ごしてきたのに、逆にこの私を捨てなさろうと、お思いですか……」とばかり、出家を惜しみ申し上げました。けれども、本当にとても頼りなげに、弱々しく、「寿命もこれ限りか……」と見える折々が多いので、
「どうしたらよいものか……」と思い惑いなさって、姫宮のところには、少しもお渡りになりません。御琴類にも興がのらず、みな仕舞われて、六条院の人々は皆、二条院にお集まりになりましたので、ここ六条院は火を消したようになり、ただ女君達がおいでになるだけで、
「紫上お一人のためだけの、栄華だったのか……」と、見えるのでございました。
女御の君も二条院にお渡りになり、院とご一緒にご看病なさいました。紫上は、
「普通のご身体ではいらっしゃらないので、物の怪などが乗り移るのがとても恐ろしいので、早く内裏にお帰り下さいませ……」と、苦しい御気分ながら申し上げなさいました。
若宮(女一宮)が大層可愛らしくいらっしゃるのをご覧になって、酷くお泣きになり、「若宮が大きくおなりになるのを、私は見ることができずに終わりましょう。きっと、私をお忘れになるのでしょう……」と仰るので、女御は涙を堪えきれず、悲しくお思いになりました。院は、
「不吉なことを……そのようにお思いなさるな。そうは言っても、悪いことにはなりますまい。その人の気持ち次第です。心の広い器(人)には幸せもそれに従って多く、心狭き人にはそうなる運命なのです。高貴な身分に生まれても、心豊かにゆったりした点で劣っている性急な人は、命も長く続くことは出来ません。心穏やかでおっとりした人は、寿命の長い例こそ多いものです。」などと、仏・神にも、この紫上のご性質がまたとないほどご立派で、罪の軽いことをはっきりと申し上げなさいました。
御修法の阿闍梨たちは徹夜でお側近くに伺候し、高僧などは皆、院がこうまで取り乱しているご様子を見ますと酷くお労しいので、心を奮い起こしてお祈り申し上げました。紫上は、少し快方に向かわれる様子が見えなさいます日が五、六日続いては、再び重く患う日が、いつまでと分からず続いて、月日をお過ごしになりますので、
「やはり、どのようになられるのか……」とお嘆きになりました。御物の怪など、出てくるものもありません。お苦しみになるご様子はどこともはっきり見えません。ただ日が経つにつれて、衰弱なさるようにのみ見えますので、院は大層悲しく、また恐ろしくも思えて、御心の休む暇もありませんでした。
そう言えば、あの衛門の督(柏木)は中納言になりました。今の御世には、今上帝のご信任が厚く、今をときめく人となられました。ご自身の声望が勝るにつけても、姫宮(女三宮)への想いが叶わぬ悲しさを嘆いて、この宮の御姉の女二宮を妻としてお迎えになりました。女二宮は身分の低い更衣腹ですので、軽く見下す気持ちが少し混じっておられました。人柄も普通の人に比べれば、またとなく気高くいらっしゃいますが、元から想いを寄せる方(女三宮)にこそ、愛情深く想っておられましたので、慰めがたい姨捨のように、女二宮を人目に咎められない程度に、お世話申しなさったのでございました。
今もなお、あの姫宮への想いを忘れることが出来ずにおられました。女房の小侍従は、女三宮の侍従の乳母の娘でした。その乳母の姉が柏木の乳母でしたので、早くから身近で女三宮のご様子を伺っていて、まだ幼い頃から、とても可愛らしくいらっしゃることや、朱雀帝が大切にお育てになっているご様子などをお聞きになりまして、片想いをするようになったのでございました。
こうして、院(源氏)が紫上の看病のために、六条院を留守にしておられます頃、邸内は人が少なくひっそりとしているのを推察して、柏木は小侍従を呼び寄せ、熱心に手引きを頼んでおりました。
「昔から、寿命も縮むほど想っているという、この堪えられないほどの想いを、親しい知人を通じて姫宮に申し上げて、お応えがあるかと気強くしていたのに、全然その甲斐がないのは本当に辛いものです。院が多くの女性に想いを寄せ、姫宮が紫上に圧倒されて、夜も独りお寝すみになることが多く、寂しく過ごしていらっしゃる様子を、人が朱雀院に奉上した時にも、父院は、源氏への降嫁を後悔なさっているご様子で、
『同じことなら……臣下で安心な後見(夫)を、女三宮に誠実にお仕えするような男を決めるべきであった……』と仰せになって、
『女二宮のほうが、かえって安心して、将来末長く、幸福に暮らされるようだ……」と、仰せになった事を伝え聞き、女三宮がお気の毒で残念に思われ、どんなに心乱れたことだろう。なるほど同じ姉妹を頂戴したのだが「あの方のほうがやはり愛しく……」と思える……」と溜息を漏らしなさるので、小侍従は、
「まぁ、何と大それたこと。女二宮を差し置いて、何と道理を外れた事を考える御心なのでしょう」と言えば、柏木は微笑んで、
「そうであった。女三宮への私の想いを申し上げたことは、朱雀院も内裏もご存知だったのだから、どうして姫宮が私に相応しくないことがあろうか……。朱雀院が何かのついでに仰ったのだが、いや、ただ、もう少し院(源氏)が、女三宮に愛情をかけて下されば……」などと言いますので、小侍従は、
「とても難しいことですよ……。ご宿世とかいうことがありますのに、あの院(源氏)が言葉に出して、丁重に結婚の申し入れをなさいました時に、その院に立ち並んで、貴方に、二人を妨げるほどの御人望があったとお思いでしたか。最近こそ少し御威勢があり、御衣の色も濃くなられましたけれど……」と言えば、柏木は返す言葉もなく、小侍従の早く強い口調に、最後まで言い終えることができずに、
「今はもうよい。過ぎたことはもう言うまい。ただこのように滅多にない人目の少ない時に、女三宮のお側近くで、私の心の内の想いを、少しだけ申し上げられるよう取り計らってください。大それた心など全くない……まぁ、見ていて下さい。恐ろしい事など全く思ってもおりません」と仰いますと、小侍従は、
「これ以上、大それた心は他に何がありましょうか。大層恐ろしいことをお考えになったことですよ。一体、私は何をしに、ここに参ったのでしょう」と口を尖らせておりました。
「嫌なことを言う人だ。あまり煩わしい物言いをなさいますな。男女の世は大層定めなきもの。女御・后と申し上げても、事情があって、情けを交わすことがないわけでもあるまい。まして女三宮のご様子を思えば、皇女という比べる者のないほど高い御位でありながら、内心はお辛いことも多いことでありましょう。
姫宮たちの中でも、朱雀院が格別に可愛がり、お育て申し上げておられましたのに、今、源氏に降嫁して、身分の低い御婦人方に立ち混じって、面白くないこともあるに違いない。よく聞いて知っていますよ……。世の中は無常のものですから、一概に決めつけて、体裁悪く突き放すような事を仰るものではありませんよ」と仰いますと、小侍従は、
「他のご婦人方に見下されておいでになると言っても、今更、一層立派な方と改めて再婚なさることができるものでしょうか。このご結婚は、世間一般の結婚ではありません。ただ、御後見がなくて、頼りなくお暮らしになるよりは、親代わりとなって頂こう……と、朱雀院がお譲り申しなさったもので、お二人は互いに、そのように思い合っているようです。いやな悪口を仰るのですね……」と、最後には腹を立てておりました。
これをあれこれ言いなだめて、
「誠に、そのように院(源氏)の、世に又とない素晴らしいご様子を拝見して暮らしている姫宮の御心に、私のように人数にも入らない貧相な姿をご覧に入れようとは、決して思ってはおりません。私がただ一言、物越しにでも、姫宮に申し上げることが、どれほどのご迷惑になりましょうか。神・仏にも、思うことを申し上げるのが、罪になるのでしょうか……」と大層な誓言をして仰るので、小侍従も暫くの間は、大層あってはならない事と断っていましけれど、道理を知らない若い女房は、男が命に替えて熱心にお願いなさるのを、遂には断ることができずに、
「もしそのような機会があれば、手引きいたしましょう。院のおられない夜は、御帳台の周囲に女房が大勢お仕えして、御座の側には、然るべき人が必ず伺候しておりますので、一体、どのような機会に、隙を見つけたらよいだろう……」と、困りながら帰って行きました。
「どうした どうした」と、毎日責められて困り果て、小侍従は二人が逢える機会を何とか見つけて、手紙をよこしました。衛門の督は喜んで、大層粗末な目立たない姿で、忍んで六条院においでになりました。誠に自分自身の心ながら、大層けしからぬ事と思えるので、姫宮の身近に参上して、かえって思い乱れる気持ちが勝るだろうとは思いも寄らず、ただほんの少しだけ……、御召し物の端だけを拝見した春の夕方のことが、今も思い出されるので、
「もう少し近くで拝見し、想っている気持ちを申し上げれば、一行のお返事などでも下さるのではないか……情をお見せになり、私に気付いて下さるのでは……」と思っておりました。
四月十日過ぎのこと。御禊の儀式が明日に迫り、斎院に差し上げなさる女房十二人、特別に上?(高貴な身分)ではない若い人、童べなど、各々が裁縫や化粧などをして、儀式を見物するための準備に忙しく、姫宮の御前の方がひっそりとして、人が多くない時であった。
姫宮の近くに仕える按察の君も、時々通ってくる源中将を呼び出させたので、御前から下がっており、ただこの小侍従だけが仕えておりました。「今こそ良い機会だ……」と思って、やおら御帳台の東面の御座所の端に、衛門の督を座らせました。あるべきことでありましょうか。
姫宮は無心にお寝すみになっていましたが、近くに男の気配がしますので、「院がおいでになったのか……」とお思いになりました。けれども、男は畏まった態度を見せて、浜床の下に宮を抱き下ろしましたので、魔物に襲われたのかと、やっと目を開きなさいますと、そこには院ではない男がおりました。男は妙な聞き知らぬ事を申すではありませんか……。姫宮は驚いて恐ろしくなり、女房をお呼びになりましたが、近くに仕える者もなく、聞きつけて参上する者もありません。姫宮はひどく震えていらっしゃいまして、水のように汗も流れて、何もお考えになれない様子が、とてもいじらしく愛らしい感じがしました。
「数にも入らぬ者ですが、誠にそれほど軽蔑されるべき身とも思われません。昔から、身分不相応の思いがございましたが、一途に秘めておきましたなら、私の心のうちに、朽ちて過ぎてしまったでしょうけれど、私の想いを少し申し上げさせて頂きましたところ、朱雀院にもご存知おきあそばされて、全くかけ離れ過ぎているとは仰せになりませんでしたので、私は少し頼みをかけ初めておりました。身分が劣っていたがために、他人より深い宮への想いを無駄にしてしまったことを、残念に思うようになりましたが、万事、今では何の甲斐もないことと思い返しはしますものの、どれくらい深く思い詰めておりましたことか……。
年月の経つにつれて、私は残念にも辛くも、院(源氏)を疎ましく思われ、貴女が可哀想で、一層深く思いが募ることに堪えかねて、このように大それた振る舞いをご覧に入れましたが、一方には誠に、思慮がなく恥ずかしいことなので、これ以上、罪重き気持ちなどは、全くございません……」と言い続けるうちに、姫宮が、
「この人(柏木)だったのか」とお分かりになると、大層無礼で恐ろしいことだと思えて、何のお答えもなさいません。
「当然なことですが、世間に例のない事でもありませんのに、このように珍しいほどに無常な仕打ちを頂きますのは、大層残念で、私にはかえって一途に思い詰める気持ちが、一層起こることになりましょう。せめて不憫な者とだけでも仰って下されば、私はそれを承って退出いたしましょう……」と申し上げなさいました。
端から見ると姫宮は威厳があって、いつも馴れ馴れしくお逢い申し上げるのさえも、こちらが恥ずかしくなるほど気高いと推察される方なので、「ただこのように思いつめる気持ちの片端をお知らせ申し上げて、かえって色めいた振る舞いはしないで終わろう……」と思っておりましたけれど、姫宮はそれほど、気高く恥ずかしくなるようなご様子でもなくて、ただ優しく可愛らしく、もの柔らかな感じで、上品で素晴らしく思えるところが、他の誰とも違う感じでございました。
賢明に自制していた心も失せて、
「何処へなりとも、姫宮を連れて行って、お隠し申し上げ、私自身もこの世を捨てて、姿を消してしまいたい……」とまで思い乱れました。
ただ少し微睡んだ夢の中に、あの手懐けた唐猫がとても可愛らしく鳴いてやって来たので、
「この宮にお返し申し上げようと、私が連れてきたように思えたが、どうしてそうと思ったのか……と、考えている内に目が覚めて、「どうしてあんな夢を見たのだろう……」と思いました。
姫宮にはあまりにも以外なことで、現実とも思えないので、胸が塞がる思いがして、途方にくれていらっしゃいました。
「やはりこのように、逃れられない深い宿縁だということをお思い下さい…… 」と、分別を無くしたように思われ、あの日の夕方、思いがけなく御簾の端を、猫の綱が引きあげ、お姿が見えたことを、姫宮にお話申し上げました。
「誠に、そうであったのか……」と残念に思われ、前世からの宿縁が辛い御身の上でございました。
「院にも、今はどうしてお目にかかれようか……」と悲しく心細くなられて、大層幼げにお泣きになりますので、「誠に畏れ多く、愛しい……」と拝見して、涙を拭う御袖は、大層露に濡れてしまいました。
夜も明け行く頃になりましたのに、衛門の督は退出する気になれず、かえって逢わねば良かったのか……と思っていました。
「どうしたらよいでしょう。私を大層お憎みになって、お話申しなさることもできないでしょうけれど、ただ一言、お声をお聞かせ下さい」などと申し上げて、姫宮を悩ませるのも、宮にとっては、ただ煩わしく情けないので、何も仰ることができません。
「とうとう私は無骨で疎ましい男になってしまいました。このような例はありますまい……」と大層辛く思い申し上げて、
「それでは……私はもう無用のようです。この身は無駄に死んでしまいましょう。この命が捨てがたいからこそ、このようにまでしたのです。今宵限りの命ともなれば、大層辛いものでございます。少しでも御心を許して下さるのならば、それを引き替えにして、命を捨てもいたしましょうが……」と、姫宮を抱いて、外に出ようとするので、
「終いには、この私をどうするおつもりなのか……」と呆れて、怯えていらっしゃいました。隅の間の屏風を広げて、妻戸を押し開けますと、昨夜入った渡殿の南の戸がまだ開いていました。夜明け前のまだ暗い頃なのですが、姫宮の御姿を微かに拝見したいという心がありますので、格子を静かに引き上げて、
「このように大層冷たい御心なので、私の正気も失せてしまいました。少しでも気持を静めようとお思いになるならば、せめて『可哀想に……』とだけでも仰ってください」と脅し申し上げると、
「何を……とんでもないこと」とお思いになり、何かを仰ろうとはなさいましたが、ただ震えるばかりで、誠に子供っぽいご様子でございました。ただ夜が明けていきますので、大層気忙しく、
「しみじみした夢物語もお話し申し上げたいのですが、このように私をお憎みになっていらっしゃるので……、そうはいっても、やがて思い当たる事もございましょう」と気忙しく退出する明け暮れは、秋の空よりも物思いをさせるものでした。
おきて行く空も知られぬ明け暮れに いづくの露のかかる袖なり
(訳)起きて帰って行く先も分からない明け暮れに どこからか露がかかって、袖が濡れるのでしょう
袖を引き出して訴えますので、「これで退出する…」と、少しほっとなさいまして、
あけぐれの空に憂き身は消えななん 夢なりけりと見てもやむべく
(訳)明け暮れの空に、この身は消えてしまいたい。 夢であったと、思い済まされるように……
幼げに可愛らしく、弱々しく仰る声を、聞き漏らさないようにと、その身から離れてしまった魂が、誠に身を離れて、姫宮のもとに留まっているような気がいたしました。
女宮(妻・女二宮)のところにもお帰りにならずに、大殿(実家)へ忍んでおいでになりました。自室で横になられましたが、目を閉じることもなく、見た夢が正夢かどうがも分からないことを思うと、夢の中のあの唐猫の様子を、恋しく思い出さずにはいられません。
「それにしても、大変な過ちを犯したものだ。この世に生きていることさえ、気が咎める……」と、恐ろしく体裁悪い気がして、外出などもなさいません。女三宮のためには言うまでもなく、自分自身の気持ちとしても、
「絶対、あってはならぬことだった」と恐ろしく、気の向くままに出歩くことなど出来ません。帝の御妃と過ちを犯して噂になるのが、これ程苦しい事ならば、命を捨てることさえも辛くはないだろう。それほど酷い罪に当たらなくとも、この院(源氏)に睨まれ申す事は、誠に恐ろしく、その罪を意識して、合わせる顔もない…と思われました。
限りなく高貴な女性と申し上げる方の中には、表面上は嗜みがあり、おっとりしていても、少し男を知る心もある人は、このように男に靡いて、情を交わしなさる方もあるようだけれど、この女三宮は思慮深いという程でもなく、ひたすら怖がりなさるご性格なので、只、今のこの密事を他人が見たり聞いたりしたかと思うと、目も眩むほど恥ずかしく思えるので、明るい所へいざり出ることさえお出来になりません。
「何と情けない我が身の上だろう……」と自分自身お分かりになったことでしょう。
姫宮が御気分の優れないご様子だと、大殿(源氏)がお聞きになりました。大層心を尽くして紫上を看病なさることに加えて「また、どうしたのか……」と驚きなさいまして、六条院にお渡りになりました。宮はどこという苦しそうなご様子も見えなさらず、ただひどく恥ずかしがり塞ぎ込んで、大殿とまともに目を合わせなさらないご様子を、
「久しく逢えなかったことを、恨んでおられるのか……」と可哀想にお思いになり、紫上のご病状などをお話申し上げて、
「……もう最期かも知れません。私はこんな時にこそ、疎かなお扱いを見せるまいと思います。紫上は、幼い頃より私が世話をしはじめ、見捨て難い方なので、長い間、他の事を忘れて看病をしていたのです。いつかこの時期が過ぎれば、きっと貴女も見直して下さるでしょう……」など申しなさいました。
このように、大殿が少しも秘事をご存知ないことを、お気の毒で申し訳なくお思いになって、姫宮は人知れず、涙が流れるのでございました。
まして督の君は、寝ても覚めてもただ苦しみだけが勝って、日々暮らし難くおられました。祭(御契)の日などは、君達が先を争うように来て、見物に誘いましたけれど、悩ましげに物思いに沈んで、臥せっておいでになりました。女宮(妻・女二宮)を敬い大切にお扱い申しておられますが、少しも親しくお逢いにならずに、自室に離れていて、所在なく心細く沈んでおられました。
童べが持っている葵(蔓草)をご覧になって、
くやしくぞ つみをかしけるあふひ草 神の許せるかざしならぬに
(訳)悔しいことよ。罪を犯してしまった。神が許した仲ではないのに……
そう思うにつけても、かえって逢わなければ良かったような思いでありました。世間の騒がしい御車の音などを、よそ事のように聞いて、自ら招いた物思いに圧倒され、所在なく暮らしがたく思われました。女宮(二宮)もこのように夫の不快そうな様子が見受けられるので、何事かはご存知ないけれど、体裁悪く不愉快にお思いでございました。今日は女二宮の女房なども、皆、見物に出ていて、人少なでのんびりしていましたが、女宮は物思いに耽って、箏の琴などを慕わしく爪弾いていらっしゃいました。そのご様子は、さすがに上品で優雅に見えました。けれども、督の君(柏木)は、
「同じ皇女なら、いまひときわ善い人(女三宮)であればよかったのに、及ばなかった運命よ……」とお思いでございました。
もろかづら 落ち葉を何に拾ひけん 名はむつまじきかざしなれども
(訳)どうして劣った落ち葉のような方を拾ったのだろう。 名は同じご姉妹ではあるが……」
と、遊び書きしておられますのは、誠に失礼な言いようでございます。(草子地)
大臣の君(源氏)が、滅多にない事でしたが、六条院にお渡りになりました。二条院にすぐにもお帰りになることができずに、紫上のことを心配しておられましたところに、
「紫上が息をお引き取りになりました……」と、使者が参りましたので、誠に何も考えることもできずに途方にくれて、二条院に急いでお帰りになりました。道中、大層心細くおられました。
二条院では、周囲の大路にまで人々が騒いでおりました。この邸の中で、皆が泣き騒いでいる気配は、大層不吉でした。無我夢中で中にお入りになりますと 、
「この頃は、少しお具合が良いように見えたのですが、急にこのようになられました」と言って、お仕えする女房たちは、皆、「私も一緒に死んでしまいたい……」と、心惑う者たちが数限りなくおりました。御修法などの壇を片付け、偉い僧は退出せずに残って、あれこれと騒ぐのをご覧になり、
「それではもう最期なのか……」と、思い切るその情けなさは、何事か比べるものがありましょうか。「それにしてもこれは物の怪の仕業であろう。このようにむやみに騒ぐな。」と、皆をお鎮めになって、ますます尊い願などを立ててお加えになりました。優れた験者たちを全て呼び集めて、
「限りある御命ですから、この世が尽きなさいましても、ただ、今しばらく命を延ばしてください。不動尊の御本の誓いがあります。せめてその日数だけでも、命を引き留め申してください」と、頭から黒い煙を立てるほどに強い祈りの心で、加持祈祷申し上げなさいました。
「ただ、今一度、目を見合わせてください。誠にあっけなく……臨終の時でさえ、逢う事ができずに逝ってしまったのが、悔しく悲しいのです……」と思い乱れ、もうこの世に留まることができない紫上のご様子を拝見するそのお苦しみは、いかばかりか、推し量れましょうか。
院の大変な御心の内を佛もご覧になったのでありましょうか。この幾月も全然現れ出でなかった物の怪が、小さな童に乗り移って呼び騒いでいる内に、紫上はだんだんと正気に戻ってこられました。院は嬉しくなられましたが、更に不吉に心が騒ぐのでした。
物の怪はひどくこらしめられ、
「他の人は皆、去りなさい。源氏の君おひとりの耳に、申し上げたいことがあります。幾月もの間、この私を苦しめなさるのが、情けなく辛いので、同じ事ならお知らせしよう……と思いましたけれど、院がご自分の命も堪えられないほど、身を砕いて思い悩んでおられる御姿を拝見いたしますと、今こそ、私はこのようにあさましい姿(物の怪)に変わっていますけれど、昔の愛情が残っているからこそ、苦しむご様子を見過ごす事はできないと、とうとう現れてしまったのです。「決して知られまいと思っていましたのに……」と、髪を振り乱して泣く童の様子は、昔、ご覧になった物の怪の姿と見えました。
「驚くべきこと。何と怖ろしい……」と思い知り、相変わらず忌まわしいことなので、この童の手を捉えて、引き押さえ、乱暴なことはさせなさいませんでした。
「誠に、その人(六条御息所)なのか……。良くない狐などで、気が狂ったものが、亡き人の恥になることを言い出すという話もあるので、はっきり御名を名乗りなさい。また他の人の知らない、私のみがはっきり思い出される秘事を言いなさい。そうすれば、誰と信じることができようが……」と仰ると、物の怪はぼろぼろ涙を流し、大層泣いて、
「私は変わり果てた姿になってしまいましたが、それでも、知らない振りをする貴方は、昔のままの冷たい方ですね。何とも辛いことです……」と、泣き叫ぶ一方で、恥ずかしがるご様子は、六条御息所そのままで、かえって大臣(源氏)にとっては疎ましくなられ「物の怪には何も言わせまい……」とお思いになりました。
物の怪は、
「中宮(秋好・六条御息所の娘)の御事でも、源氏の君のお世話を大層嬉しく有り難い事と、魂が天翔りながらも拝見しておりましたが、今も成仏できずにおりますので、娘(中宮)の身の上までも、深く考えられないのでしょうか。やはり自らが辛いと思い申した執念が、まだこの世に留まっているのです。中でも、私が生きている時に、私を葵より見下して、見捨てなさったことがありました……それは、親しい者同士(院と紫上)でのお話の中に、
『御息所は性格が良くないし、扱いにくい方であった……』と、院が口になさったのを、大層恨めしく思いました。今はもう亡き人と心許して、他人が悪口を言うのさえ、打ち消して頂きたいと思っていましたのに……このように怖ろしい身の上(生霊)なので、この度は紫上が大変なことになってしまわれたのです。紫上を心から憎いと思い申し上げることはないけれど、院ご自身は佛神の守りも強く、身辺は遠い感じがして、御身に近づくことができず、御声さえも微かに聞くだけでした。
よろしい。今はもう、この罪を軽くするような事をなさってください。修法・読経で騒がしくすることも、私の身には苦しく、情けない焔となってまとわりつくばかりで、さらに尊い経も聞こえないので、大層悲しく思います。中宮にもこの旨をお伝えください。決して御宮仕えの際に、人と競ったり嫉妬する心を持ってはなりません。斎宮でいらっしゃる頃の御罪を軽くするような功徳を必ずなさるように……。斎宮になったのは、大層悔しいことでございました……」などと言い続けましたが、源氏は物の怪に向かって話をするのは辛いことなので、物の怪を封じ込めて、紫上を別の部屋にこっそりとお移しなさいました。
このように、紫上が亡くなられた…という噂が世間に広がり、御弔問申し上げる人々があるので、院は大層不吉にお思いでした。今日の御祭見物に出かけなさいました上達部などは、お帰りになる道中で、このような噂を耳にして、
「大層酷いこともあるものだ。光を失う日には、雨がしょぼしょぼ降るのだなぁ……」と、遠慮なしに言う人もありました。また、
「全てに満ち足りた人は、必ずや長生き出来ない…と言うことだ。「何を桜に……」という古歌もあるように……。
[注・散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世に何か久しかるべき(伊勢物語)]
紫上のような方が、ますますこの世に長生きして、世の楽しみの限りを尽くせば、側の人には辛いことでありましょう。今こそ、一品の宮(女三宮)は、院(源氏)のご寵愛を受けることになられましょう。お気の毒にも、今まで、紫上に圧倒されたご寵愛でしたから……」などとひそひそ話をする者もおりました。
督の君(柏木)は、昨日暮らし辛かった事に耐えられず、今日は、弟達の左大辨・頭の宰相などを御車の奥の方に乗せて、祭見物をなさいました。世間がいろいろ言い合うのを聞くにつけても、胸のつぶれる思いがして「何か憂き世に久しかるべき……」と、古歌をひとり口ずさんで、あの二条院に参上なさいました。まだ確かなことではないので、弔詞などは不吉なことと、ただの普通の御見舞いとして参上なさいましたのに、このように人々が泣き騒いでいるので、誠の事だと驚きなさいました。
式部卿の宮(紫上の父)も二条院にお渡りになり、大層ひどく悲嘆なさったご様子でお入りになり、ご弔問の言葉さえも、申し伝えることがお出来になりませんでした。
大将の君(夕霧)も涙を拭いながら出てこられまして、
「どうしたことですか、人々が不吉なことを申しましたので……誠に信じ難い事です。ただ、私達は、長いことご病気でおられると承っておりましたので、大層嘆いて参上いたしました」と仰いました。さらに大将は、
「大層ご病状が重くなられて、月日を送っておられましたが、この明け方頃に、息も絶えてしまわれました。物の怪の仕業でしたので、だんだん生き返りなさるご様子と聞きまして、今こそ、人は皆、心を鎮めましたが、まだとても心細いご容態で……お労しいことでございます」と、ひどくお泣きになりました。目も少し腫れていました。督の君は自分のけしからぬ心を思えば、
「この君(夕霧)は、大して親しくもない継母の御ことで、大層心乱しておられる……」と、目を留めました。このようにいろいろな方々が参上なさる様子を、院がお聞きになって、
「重い病状で、急に亡くなった様なのです。女房などは冷静になることができず、心乱れて騒いでいます上に、私自身も落ち着きを失って、心慌ただしくおります。このようにお見舞い頂いた御礼については、後日改めて申し上げます」と仰いました。
督の君は胸つぶれる思いがして、このような折の騒ぎがなければ、院の元に参上することはできず、誠に気後れがするのも、心の内に後ろめたい事があるからでございました。
紫上が何とか生き返りなさった後は、一層、怖ろしくお思いになって、再び大層な御修法の数々を尽くして、加えて行わせなさいました。
御息所が生きていた頃でさえ、嫌だとお思いになった方が、まして亡くなられて、怪しい姿(物の怪)になられたことを思うと、一層気味が悪いので、中宮(御息所の娘)をお世話する事さえ、この折には気味が悪く思われ、結局女性の身は皆、同じく罪深きものだと、全ての男女の世の中が煩わしく思われました。他人は聞かなかったお二人の睦ごとを、物の怪が語り出したので、「これは誠にあの方……」と思い出しなさると、大層煩わしいこととお思いになりました。
御髪を下ろし出家することを、紫上が一心に望んでおられましたので、「特戒による功徳もあろうか」とお考えになり、頭の頂きに形式的に鋏を入れて、五戒だけを受けさせなさいました。御戒の師が特戒の優れている旨を佛に申すにつけても、しみじみと尊いこともございました。院が、傍目にも体裁が悪いほど、紫上の傍らに付き添いなさって、涙を押し拭いながら佛を共に念じ申しなさいまして、院のようにこの世に気高くおられる方でさえも、大層御心惑い、冷静ではいられないようでございました。
「どのような方法をとってでも、紫上をお救いして、この世にお留め申し上げたい 」と、夜も昼もお嘆きになり、ただぼっとしておられますので、御顔も少し面痩せなさいました。
五月などは、まして晴々しくない空模様なので、紫上のご気分が少しも爽やかになることはありませんが、以前よりは少し良くなられたようでした。けれども、なお絶えずお苦しみになりました。
物の怪の罪を救うべく、毎日法華経を一部づつ供養させなさいまして、数々の尊き祈祷をさせなさいました。紫上の御枕元近くで、不断の御読経を、声の尊い人だけで読ませたのでございました。
物の怪が現れては、時々悲しげな事などを申しますが、この物の怪が去ることはありませんでした。酷く暑い頃には、紫上は息も絶え絶えになられ、ますます衰弱してしまわれますので、院は言いようのない程、お嘆きになりました。意識のなくなるような心地の中で、このような院のご様子を辛そうに拝見なさいまして、
「この世から私がいなくなったなら、わが身には残念に思うことは残らないけれど、院がこのように心乱れておいでになるので、今、空しくなり亡きものと見なされるのは、大層思いやりのないこと……」と気力を奮い起こして、薬湯などを御飲みになったせいでしょうか、六月になって、時々頭を枕から持ち上げなさいました。院は珍しいとご覧になりながらも、なお、とても危うい感じがしますので、ずっと付添いなさいまして、六条院にはわずかの間でさえもお渡りになることができませんでした。
姫宮は起こるべきでない出来事を大層お嘆きになり、それ以降、普通のご様子ではなく辛そうにしておいでになりました。特に深刻な状態でもないのですが、先月より何も召し上がらずに、大層青ざめて窶れてしまわれました。
一方、あの衛門の督は、訳もなく姫宮への想いが募る時には、全てのことが夢のように見申し上げておりましたけれども、姫宮の対応は尽きせず不条理なことと、お嘆きでございました。院(源氏)のことを大層恐がり申しなさる御心から、その態度やお人柄を、父・朱雀院と等しいと見られましょうか。大層風流に優雅にお過ごしですので、世間の目には普通の人よりは勝っていると誉められているけれど、幼い時より、この上ない優美な方々を見慣れておられる姫にとっては、ただ心外な人とご覧になり、ずっとお悩みになることは、姫宮にとって大層お気の毒な運命でございました。
御乳母達は、姫宮をご懐妊の様子と拝見して、咎め、院が希にしかお渡りにならない事に対して、いろいろ文句を並べては、お恨み申し上げておりました。「姫宮がお苦しみです……」とお聞きになった時にだけ、六条院にお渡りになるのでございました。
二条院では、紫上が「暑くて苦しい」と仰いますので、御髪を洗い、少し爽やかにしていらっしゃいました。横に臥しながら、髪を投げ出しておいでになりましたが、すぐにも乾かないけれど、少しも膨らんだり乱れたりする毛もなく、大層美しくゆらゆらとしていました。青白くすっかりお痩せになりましたが、かえって可愛らしげに見えて、透き通るように見えるお肌が、又とないほど愛らしくいらっしゃいました。ただ虫の抜け殻のようにまだ大層頼りないご様子でした。
院邸の内部は、長い間お住まいにならなかったため、少し荒れた感じがして、例えようもなく手狭に見えました。昨日今日と、紫上が少し意識がはっきりした時に、特に心尽くして手入れをさせた遣り水や前栽が、大層心地よいのをご覧になり、今まで長い時が過ぎたことをしみじみと感慨深くお思いになりました。池は大層涼しげに蓮の花が一面に咲いていて、青々とした葉に露がきらきらと宝石のように見えますので、
「あれをご覧なさい。蓮だけが涼しげに咲いている……」と仰いました。紫上が身体を起こして蓮をご覧になるのも、実に珍しいことなので、
「こうしてご一緒に拝見することこそ、夢のような心地がします。重篤な時にはわが身さえ終わるのか……と思える折もありました」と涙を浮かべて仰いますと、紫上はしみじみとお思いになって、
消え止まる程やや経べきたまさかに 蓮の露のかかるばかりを
(訳)露が消え残っている間だけでも生きていられるでしょうか
たまたま蓮の露がこのようにあるのですから……
契りおかむ この世ならでも蓮葉に 玉ゐる露の心へだつな (源氏)
(訳)お約束しましょう。この世ばかりでなく、来世の蓮の葉の上に、
玉となる露のようにほんの少しの心隔てをも、置かないでください。
お出ましなさる先(女三宮の所)を、院は億劫にお思いですけれど、内裏も朱雀院もお耳になさることですし、姫宮が体調を崩されたと聞いてから暫くが経ちましたのに、目の前にいる紫上のご病気に心乱れて、姫宮にお逢いすることもほとんどなかったので、今、ご病状の落ち着いた合間にも、紫方に籠もっていてはよろしくない……」とお思いになって、六条院にお渡りになりました。
姫宮は自責の念に苛まれて、お逢いするのも恥ずかしく遠慮されますので、院が何を申し上げてもお返事もなさいません。
「日頃、ご無沙汰が続いたので、心の中では辛いとお思いだったのか……」と申し訳なく思われて、あれこれお慰め申し上げなさいました。年輩の女房をお呼びになり、体調のご様子などをお尋ねになりますと、
「普段のお身体ではないようです」と御気分の優れないご様子をお伝え申し上げました。
院は、
「不思議なことだ。今頃ご妊娠とは……」とだけ仰って、御心の内では、
「長い年月、連れ添った妻たちでさえ、そのような事はなかったのに、納得のいかないことだ……」とお思いになりました。けれども、特に姫宮には何も仰いません。ただお辛そうなご様子が大層痛々しいので、いとおしく拝見なさいました。ようやく思い立ってこちらにお渡りになりましたので、すぐにはお帰りになることができずに、二、三日おられます間、
「どうしておられるだろうか……」と、紫上のことを大層ご心配なさり、御文を心尽くしてお書きになりました。
そのご様子を拝見して、
「いつの間に御言葉が積もるのでしょう。姫宮にとっては、何ともご不安な世を見ることになるでしょう……」と、その事情を知らない女房が申しました。ただ小侍従だけは、
「まさかこのようなことになるとは……」と、胸騒ぎがしていたのでございます。
あの衛門の督も、院が六条院にお渡りになったと聞いて、大変な心得違いをして、大それたことを書き綴って、姫宮にお届けになりました。院が少しの間、自室にお入りになった時に、周囲が人少なになりましたので、小侍従はこっそりその御文をご覧にいれました。
姫宮は、
「厄介な御文など見るのは辛いこと。この気分の悪い時に……」と横になられましたので、
「でも、この端書のところがお気の毒でございます……」と御文を広げたところに、女房が来ましたので、小侍従は困って、とっさに御几帳を引き寄せて、その場を立ち去りました。姫宮はとても胸が潰れる思いがしていたところに、急に院(源氏)が入ってこられましたので、その御文を上手く隠すことができずに、仕方なく、御茵の下に差し挟みなさいました。
夜になり、院はお帰りになろうと、姫宮にご挨拶申しなさいました。
「こちらは特にお具合が悪いようには見えません。紫上のご病状が不安定な時に、見捨てられたようにお思いになるのも、お気の毒なことですので、ひとまず退出いたします。陰口を申す者があっても気になさいますな。いずれ私のことを、見直してくださる機会もありましょう……」等とお話しなさいました。
いつもは、姫宮が子供っぽい冗談事などを申しなさいますのに、この時ばかりは、大層沈み込んでいて、はっきりと目を合わせることさえもなさいませんので、
「ただ夫婦の間の恨めしいお気持か……」とお思いになりました。
昼の御座に横になられて、暫くお話など申しなさいますうちに、日が暮れてしまいました。院は少しお眠りになりまして、華やかに鳴くひぐらしの声で目を覚まされました。
「帰路が暗く危なくならない内に……」と思い立ち、御衣などのお召し替えなさいました。
姫宮が、
『月待ちて……』と言いそうですから……」と、若々しい様子で古歌を呟きなさいますので、誠に愛しくお思いになって、
「その間だけでも、ご一緒に……」とお望みなのだろうかと、いじらしく思われ、立ち止まりなさいました。
夕露に袖ぬらせとやひぐらしの 鳴くを聞く聞く、おきて行くらん
(訳)夕露に袖を濡らせというのか。ひぐらしが鳴くのを聞きながら、
起きて行かれるのでしょうか……
子供のような御心にまかせて、姫宮が口にされたことを、愛おしくお思いになりましたので、院はそのままひざをついて「困ったなぁ……」とお嘆きになり、
待つ里もいかが聞くらんかたがたに 心騒がすひぐらしの声
(訳)私を待っている方でも、どのように聞いているでしょう。
それぞれに心を騒がすひぐらしの声ですね
などと、退出を躊躇いなさって、やはり無情に帰るのも心苦しいので、その夜はお泊まりになりました。けれども、紫上のことを大層ご心配なさって、心落ち着かないまま、御果物だけを召し上がってお寝すみになりました。
まだ涼しいうちに二条院にお帰りになろうと、朝早くにお起きになりました。
「昨夜、扇を落としたようだ。この檜扇では風が温く感じられる……」と御扇をお置きなさって、昨日、うたた寝なさった御座のところに立ち止まり、辺りをよく捜してご覧になりますと、御茵が少し乱れている端から、浅緑色の薄様の御文の押し巻いた端が見えていました。
何気なく引き抜いてご覧になると、紙は大層優雅な香が薫り、男の筆跡で念入りに書かれていました。重ねて細々と書いてあるこの御文は、紛れもなく「柏木の筆跡だ」とお分かりになりました。
御鏡の蓋を開けて、大殿のお召し替えにお仕えする女房達は、これは殿がご覧になるべきお手紙であろうと、事情も知らずにおりましたが、小侍従はそれを見つけて、昨日の柏木からの御文と同じ色だと気づき、大層怖ろしくなり胸がどきどき鳴る心地がしました。院が御粥など召し上がる様子さえ見ることもできずに、
「いえ、まさか柏木の御文ではないでしょう。もしそうだとしたら大変なこと。きっと……宮は上手く隠しなさったに違いない……」と強いて思いました。
姫宮はその時、まだ無心にお寝すみになっていました。大殿は、
「あぁ、何とも幼いことだ。このような物を散らかしなさって……。私以外の人が見つけたら大変なことになる……」とお思いになるにつけても、何か姫宮から見下されたような感じがして、
「やはりそうか。ひどく幼稚なご様子を心配していたのだが……」とお思いになりました。
大殿がお帰りになり、女房たちが退きましたので、小侍従は急いで姫宮の側に寄って、
「昨夜の柏木の手紙はどうなさいましたか。今朝、大殿がご覧になっていた手紙の色が似ていましたが……」と申し上げると、
「まァ大変……」ととても驚きなさって、ただ涙が溢れてくるばかりです。
そのお姿を「お気の毒だけれど、どうしようもない……」と、小侍従は拝見していました。
「どこにお置きになりましたか。女房たちが参りましたので、私が宮の近くに仕えてはまずいだろうと、些細なことにも用心して、心を鬼にして引き下がりましたのに……。大殿がおいでになるまでには、少し間がありましたので、既に隠しなさったものと思っておりましたが……」と申し上げると、
「いえ……御文を見ていた時に、大殿がお入りになりましたので、すぐにも隠し置くことが出来ずに、茵の下に差し挟んだのですが……、それをすっかり忘れていました」と仰るので、小侍従は何とも申し上げようもありません。急いで御茵の辺りを探して見ましたが、どこにあると言うのでしょうか……あるはずがありません。
「あゝ大変なことになりました。あの方(柏木)も大殿をひどく怖がって遠慮しておられました。ほんの小さな素振りでさえも、大殿のお耳に入ることがあってはならない……と、恐縮しておられましたものを……。それほど時も経たないうちに、こんな事が起こってしまうとは……。
全て姫宮が幼すぎるため、蹴鞠の日にお姿を他人にお見せになったせいで、姫宮のことを忘れられなくなり、ずっと悩み続けておられました。まさかこうなるとは思いもしませんでした。お二人のためにも、誠にお気の毒な事でございます……」と、遠慮なく申し上げました。
宮が幼く心慣れていたために、申し上げたのでしょうけれど、姫宮はお応えもなさらないで、ただ泣いてばかりいらっしゃいました。大層お辛そうに、何も召し上がりなさいませんので、女房達は、
「このように宮がお辛そうなのに、大殿が放っておかれるのは大層酷いこと。今はもう病がすっかり佳くなられた紫上のお世話にのみ、心尽くしていらっしゃるとは……」などと話し合っていました。
大殿には、やはりこの手紙が大層気がかりに思われますので、他人に見られない所で、繰り返しご覧になりました。
「宮にお仕えする女房達の中にいる者が、あの中納言(柏木)の筆跡に似た字で書いたのだろうか…」とまでお考えになりましたが、言葉遣いがはっきりとして、柏木に間違いない事などが書かれていました。
長い年月、姫宮を慕い続け、偶然に願いが叶ったことや、心穏やかでいられない事などを書き尽くした文面は、大層見所があり感慨無量ではあるけれど、このようにはっきり書くべきなのだろうか。あれほどの人が何の思慮もなく、ただ一途に書いたようだが、決して人目に触れることがあってはならない。昔、このように細々と書きたい場合にも、私は簡略に書き紛らわしたものだったが……一途に思い詰めた人が、用心深く行動するのは難しいことなのか……」と、その性格さえも見下しなさいました。
「それにしても、これから姫宮をどのようにお扱い申し上げたら良いのだろう。ご懐妊はお目出度いことではあるが……最近ご気分がお悪いと言うのも、実はこのせいだったのか。何とも忌まわしいことだ。人伝えでなく、自ずから、このようなけしからぬ事実を知ることになっても、今まで通りに、お世話申し上げるべきなのであろうか……」と、ご自身のことながら、しかし見捨てることはできない……とはお思いになるものの、
「戯れの浮気遊びであっても、男が初めからあまり好きでない女でさえも、別の男に心を寄せていると分かれば、気に入らないと疎んじられるものなのに、まして、この宮は特別な方(内親王)でありながら手を出すとは、何とも大それた男であることよ……
昔も、帝の御妃と過ちを起こす例はあったけれど、それとはまた事情が違うのだ。宮仕えをする者の中には、同じ王君に親しくお仕えするうちに、自然にそのような男女関係になり、心を交わし初め、秘め事なども多くなる事があるようだ。
女御、更衣と言ってもいろいろあって、不完全な人もあり、必ずしも嗜みが深いとは言えない人に混じったなら、思いがけない事も起きるけれど、はっきり過ちと分からない間は、そのまま内裏で宮仕えを続けることもあり、すぐには発覚しない例などもあることだろう。
この宮のように正妻として丁重にお扱い申し上げ、内々に愛情を寄せる方(紫上)よりも大切に畏れ多い方として大事にお世話申し上げているのに、その私を差し置いて、このような過ちを起こすとは、まったく前例がないことだ……」と非難せずにはいられません。
「帝と申し上げても、ただ素直にお仕えするだけでは面白くもないので、愛情深い、私的な思いを表す言葉に心惹かれて、お互いに愛情を尽くし、見過ごしがたい折節の返信をするようになり、初めて自然に心通い合うようになった仲ならば、同じようにけしからぬ事柄であっても許されようけれど、姫宮があの程度の男に愛情をかけなさるとは、思えないのだが……」と、大層不愉快にお感じになりました。けれども外聞を考えると
「表情に出すべきことでもないが……」などと思い乱れなさいまして、
「昔、故院の上(桐壺)も、御内心には、私と藤壺の密事をご存知で、素知らぬ顔を装っておられたのであろうか……。それを思えば、当時のことは誠に怖ろしく、あってはならない過ちであった」と、身近な例を思い出され、恋の山路は非難できない…というお気持も、混じるようでございました。
平静を装っておられましても、思い乱れる様子がはっきり見えますので、女君(紫上)は、
「生き残った私をいとおしく思い、二条院にお戻りになりましたのに、やはり姫宮をお気の毒に思って、どうしようもなくおられるのか……」とお気遣いなさいまして、
「気分はよくなってまいりました。まだあの姫宮がお具合が悪くいらっしゃいますでしょうに……こちらに早くお帰り頂いたことこそ、お気の毒でございます……」と申し上げなさいました。
「そうですね。宮も普通のようではないように見えましたが、特にご病気ということでもないご様子で、私も安心に思っておりました。内裏からも度々お遣いがあり、今日も御文があったとか。朱雀院が特に大切になさるようにと、帝にお頼みになりましたので、帝もそうお考えなのでしょう。女宮を少しでも疎かにすることでもあれば、私のことをどのようにお考えになるのか、誠に辛いことです……」と、溜息をおつきになりました。
「帝がどうお聞きになるかより、姫宮ご自身が、貴方を恨みにお思いになることの方が、辛いことでございましょう。大殿をお咎めなさらずとも、女房たちで良からぬ陰口を申し上げる者が必ずいることでしょう。それを思うと、とても辛く思います……」と仰いました。
「誠に……強く想う貴女のためには、姫宮は厄介な縁者ではありましょうけれど、貴女は万事に思慮深く、大方の人がとやかく思うような事にまで気を廻されますのに、私がただ今上帝がどう思うかだけを気にするのは、何とも考えの浅いことだ……」と苦笑して、言い紛らしなさいました。六条院にお帰りになることについては、
「いづれ一緒に帰って、ゆっくり過ごす事にしよう……」とのみ申しなさって、
「ここでもう暫くゆっくりしていましょう。まづ先に帰り、女宮の御心も慰みなさる頃に……」などと話すうちに、数日が過ぎてゆきました。
姫宮は、このように院(源氏)がお渡りにならないまま日数が経つのは、薄情なせいだとばかりお思いでしたが、こうなった今、「自分の過ちが加わって、こうなったのだ……」とお分かりになり、朱雀院がお聞きになったら、どうお思いになるだろう……」と、世間に顔向けできない思いでいらっしゃいました。
衛門の督も熱心に手引きを頼み続けていましたが、小侍従も煩わしく思い嘆いて、
「実は……院が、貴方様からの手紙を見つけなさいまして……」と、告げてしまいました。
柏木は大層驚いて、
「いつの間にそのような事が起こったのか。姫宮とのことは、時が経てば自然に、態度などからでも露見してしまうのだろう……と思っていたことさえも、今は気が引けて、後ろめたく思われましたが、ましてあの間違いようもない手紙をご覧になったのでは……」と顔向けもできずに、大層心苦しいので、朝夕涼しい時もない頃なのに、身も凍る心地がしておりました。
「長い年月、院は、公務や遊び事の時には、私をお呼びになり、親しくして下さいました。誰よりも、この私を細々と心にかけて下さったお気持が、しみじみ有り難かったのに、大それた呆れ果てた者として、今、私を不快にお思いになっておられるなら、どうしてお逢いすることなどできましょうか……。とは言え、長く絶えて逢いに行かないのも、やはり真実であったのかと、思い当たることになろう。それも大層辛いことだ……」等と心穏やかにいられないので、気分も酷く悪くなり、内裏へも参上なさいません。それほど重い罪には当たらないけれど、自分自身が既に死んだような気分さえするので、われながら大層苦しく思われました。
「思えば……姫宮は、落ち着いた奥ゆかしいご様子の見えない方であった。まずは、あの蹴鞠の日に御簾の間にお姿が見えた事も、あってはならぬことだった。大将(夕霧)が軽率だ……と、言っていたご性格のままに見えた……」などと、今になってお気付きになりました。この高ぶった想いを冷まそうと思うあまりに、強いて姫宮の欠点を考えたのでしょうか。(草子地)
「高貴な方と言っても、あまりにもおっとりした人は、世間も知らずに、また小侍従のような側に仕える女房に気遣うこともなさいません。その結果、自分にも相手にとっても気の毒で、深刻な事が起こることになるものだ……」等と、姫宮のことを気の毒に思う気持ちも、お捨てになることができません。
宮がとても愛らしげに苦しみ続けなさるご様子が、大層お気の毒で、お見捨てになることは出来そうになく、腹立たしい気持に紛れ、愛おしささえも苦しく思われるので、六条院にお渡りになって、姫宮をお見舞いなさる時には、胸が痛くお労しくなられ、御祈祷など様々にさせなさいました。大体のことは以前と変わらないのですが、かえって一層、大切にお世話なさるお気持が加わっておいでになりました。院が身近にお話し合いなさるご様子は、お心がすっかり離れていて、何とも体裁が悪く、ただ人目ばかりを繕っては思い悩んでおられますので、姫宮のご心中こそがお辛いものでございました。
柏木からの手紙を見た事をはっきりは申しなさらないのに、姫宮がご自分でただ深く思い悩んでいらっしゃるのも、誠に心幼いことでございます。
「全てはこの幼いご性格のせいなのだ。良いこととは言っても、男女の作法に遅れているのは あまりにも心許なく頼りないものだ……」とお分かりになると、男女の仲が全て心許なく思われました。
あの女御(明石)があまりに優しく内気でいらっしゃるのも、やはり大層心配なことだ。もしこのように、女御に心を寄せる男が現れれば、柏木にもまして心配な事である。女御に想いをよせる男は、それ以上に心乱れることになるだろう。女性は内気でなよなよしているのを、男は甘くみるのだろうか。あってはならないことだが、ふと目に止まり、自制できない過ちを犯すことになるようだ……」とお考えになりました。
「右大臣(鬚黒)の北の方(玉鬘)が特にご後見もないまま、幼い頃から頼りない生活を流離うように成長なさいましたのに、大層賢く気配りがある。私自身も表向きは親として振る舞ったけれど、憎からず想う心がないでもなかった。私には穏やかにさりげなく接して過ごし、あの大臣(鬚黒)が心ない女房と話を合わせて、玉鬘の部屋に入って来た時にも、はっきりと大臣を突き放した態度をとり、女房たちにも見せて、分からせてから、改めて「認められた結婚」という形にして、自分に罪があるようにはしなかった事などは、今思えば、何とも賢いやり方であった。
二人は縁の深い仲だったので、今もこのように長く連れ添っているということは、その初めがどんな事情であったにせよ、同じ結果になったであろう。もしもこれが「自分の意志でこうなった」と世間の人が思ったならば「軽率な女だ」という感じが加わったのだろうが、大層上手に振る舞ったものだ……」と思い返しなさいました。
二条の尚侍の君(朧月夜)を、院(源氏)はなお絶えることなく思い出しておられましたけれど、このような心配事を煩わしくお思いになって、あの方の御心の弱さをも、今は、少し見下しておいでになりました。
ついに御本意(出家)を遂げられたとお聞きになって、大層しみじみと残念に思われ、御心が動いて、まずお見舞いの御文をお送りになりました。
「今から出家します……」とさえも知らせて下さらなかったことを、心からお恨みなさいました。
あまの世をよそに聞かめや 須磨の浦に藻塩たれしも誰ならなくに
(訳)出家されたことを他人事として聞くのでしょうか。
私が須磨の浦で涙していたのは、誰のためでもなく貴女のためですから……
様々な世の無情を心に思い留めて、今まで出家せずに行き後れたことを、残念に思っていますが、
貴女がお見捨てになっても、避けがたい回向の中に、まず私のことを入れて下さるように……」などと、沢山お書きになりました。
朧月夜は早くに出家を決心なさいましたが、この院に引き留められ、他人には表しなさらなかったけれど、心の中では「昔からの辛い御契りを、さすがに浅い因縁だとは思えない……」と、あれこれ感慨深く思い出されました。
お返事には「今はもう交わしてはならない御文も、これが最後と思われます……」と、しみじみと感慨深く、心を尽くしてお書きになりました。墨づかいなどは大層美しいものでした。
「無常の世とはわが身ひとつだけと思っていましたが、『出家を行き遅れた……』との仰せを思いますと、
あま舟にいかがは思い遅れけん 明石の浦にいさりせし君
(訳)尼になった私にどうして、遅れたとお思いなのでしょう。
明石の浦に海人のように過ごしていた貴方よ……
回向は一切衆生のためのものですから、どうして院のことが含まれないことがありましょう……」とありました。濃い青鈍の紙に書かれ、いつものように樒に挟んでありました。大層美しい筆遣いは、今もなお若々しく素晴らしいものでした。
院が二条院におられる時にその御文が届きましたので、女君(紫上)にも、今はすっかり終わった事としてお見せになりました。
「とても酷い言われようで、気に入らないことです。様々に心細い世の中の様子を、私は見過ごしてきたようだ。普通の世間話などを言い交わし、季節の折々に寄せて情趣を知り、その風情を見過ごさずに、色恋なしのつきあいの出来る人は、斎院(朝顔)とこの君が、今も生き残っておいでだが、このように皆、出家してしまわれました。斎院は熱心に仏にお勤めして、心惑うことなく勤行に精進なさっておられるそうだ。大勢の女性の様子を見たり聞いたりした中でも、思慮深い人柄で心優しいという点では、あの人に匹敵する人はいませんでした。
女の子を育てることは、誠に難しいものです。宿世などというものは目に見えないことなので、親の意のままにならないことが多いようで、子が成長する時の心遣いは、やはり力を入れるべきでしょう。よくぞ大勢の子供達に心乱される事のない運命であったことよ……。私も若い頃には、子供がないのは物足りない。沢山育てたならと、嘆いた折々もあったものだ。
若宮(女一宮)を心を込めてお育て申してください。女御(明石)は分別の分かる年頃ではないのに、このようにお暇のない宮仕えをなさっているので、何事にも心許ないとお思いでしょう。内親王たちは、やはり人に後ろ指を差されることなく、一生をのどかにお過ごしなさるように、不安のない心遣いを身につけたいものです。それにも限界がありまして、後見(夫)を持つ普通の女性は、あれこれと自然に後見に助けられるものですが……」など申しなさると、
紫上は、
「しっかりした御後見はできませんけれど、私がこの世に在る限りは、若宮をお世話申し上げようと思っております。けれどわが命はどうなりましょうか……」と心細げに仰り、やはり思い通りに勤行を滞りなくお勤めなさる人々を、羨ましくお思いでございました。
「尚侍の君には、尼姿に変えたその装束などを、お世話すべきであろうが……、まだ裁縫に馴れて居ない頃ですから、袈裟などはどのように縫うのでしょう。貴女がそれを縫ってくださいませんか。一具は六条の東の君(花散里)に申しつけることにしよう。正式の尼衣のようでは、見た目も疎ましい感じがするだろうけれど、そうは言っても、法衣らしく見える御衣でないと……」などと申しなさいました。青鈍の一負をこちらで縫わせなさいました。
更に、宮中の作物所の人を呼んで、内々に、然るべき尼の御道具などを作らせなさいました。御茵・上蓆 ・屏風・几帳 なども、大層目立たないようにして、特別に念を入れてご準備なさったのでございました。
こうして山の帝(朱雀院)の御賀も延期され、秋にとありましたが、8月は大将(夕霧)の御忌月で、楽所の事を行うのは不都合であり、九月は院の大后の亡くなられた月なので避けて、十月にと予定を設けなさいましたが、姫宮が酷くお苦しみなさいますので、再び延期となりました。
衛門の督(柏木)がお預かりしている姫宮(女二宮)が、その月に参上なさいました。太政大臣が奔走して、盛大に細々と美しく、儀式の格式の限りを尽くしなさいました。柏木もこの機会には、気力を尽くしてご出席なさいましたけれども、やはり気分は優れず、通常と違って病みついてお過ごしになりました。
宮(女三宮)もひき続いて何かとご気分が滅入って、辛いとばかり思い嘆いているせいでしょうか。ご懐妊の月数が重なるにつれて、とても苦しそうになさいますので、院は情けないと思う気持はあるのですが、痛々しく弱々しい様子で苦しみ続けなさるので、
「これから、一体どのようになられるのか……」とご心配なさり、さまざまにお嘆きなさいました。今年は煩わしいことが多いので、日々御祈祷などをさせてお過ごしになられました。
御山の院(朱雀院)も女三宮のことをお聞きになって、「いとおしく逢いたい……」とお思い申し上げなさいました。六条院(源氏)が幾月も別々にお過ごしになり、お渡りになることもほとんどなかったと、人伝えにお聞きになり、「どうしたことか……」と胸がつぶれる思いがなさいました。
俗世のことも今更ながら恨めしくお思いになって、
「対の方(紫上)がご病気の頃は、そのご看病のためと伺っていてさえ、それでも心穏やかでなかったのに、その後にも変わらずにおられるのは、その頃に何か不都合なことでも起こったのだろうか。
女三宮ご自身に責任がないことでも、良くない御世話役(女房)の考えで、どんな事が起こったのだろう。内裏などで、風雅なやりとりを交わすような間柄の者の中にも、けしからぬ評判を言い出す人もあると聞こえてくる……」と、親としての細かな情を捨てた出家の世に在りながら、やはり親子の情は離れがたく思われ、女三宮に心細やかに御文をお書きになりました。
院(源氏)もおられます時に、それをご覧になりました。
(御文)
特に用件もなかったので、度々お手紙を差し上げることもなく、貴女のご様子もよく分からないまま、年月の過ぎるのは悲しいことです。お苦しみの様子を詳しく聞いてからは、念誦の時でさえも心配でなりません。……いかがでしょう。夫婦仲が寂しく思い通りにならないことがあっても、じっと忍んでお過ごしなさい。恨めしそうな素振りなど、はっきりしない事で、見知り顔にほのめかすのは、誠に品のないことです。
などとお教え申しなさいました。院(源氏)は大層お気の毒に思われ心苦しく、
「このような内々の不始末を、朱雀院がお耳になさるはずもなく、これは私の怠慢のせいだと、ご不満にのみ思いなさることだろう……」と思い悩みなさいまして、
「このお返事は、どのように申しなさいますか。お労しいお手紙で、私こそ大層辛いことでございます。たとえ心外にお思いになる事があったとしても、貴女を疎かに扱って、人が見咎めるようなことは決してするまいと思っておりますのに、朱雀院に誰がお伝え申し上げたのでしょう」と仰いますと、姫宮はただ恥ずかしそうに、横を向いていらっしゃいました。その御姿は大層痛々しく、ひどく面痩せして、物思いに沈んでおられますが、大層上品で美しうございました。
「宮のとても幼いご性格をご存知ですから、大層ご心配なさっておられるのだろうと拝察されますが、今後のこともいろいろ心配でなりません。これほどまでは決して申し上げまいと思いましたが、朱雀院の御心に私が背いたと思われるのが不本意で、心晴れない思いでおります。せめて貴女にだけは、申し上げておかなければと思いまして……。
まだ思慮が足りなく、ただ人が申し上げるままに従いなさる貴女の御心には、私をただ疎かな薄情者とだけお思いになり、また今では、すっかり男盛りを過ぎた私を、内心、見下して、ただ見馴れた人とお思いなっているようなのも、それぞれに残念で腹立たしく思われます。父院のご存命中はやはり我慢をして、あちらのお考えもあったことでしょうから……この年寄りを朱雀院と同じようにお考え頂き、ひどく軽蔑などなさらないでください。
私は昔から「出家」という本意でさえも、その考えの薄い人達にさえ後れを取って、大層決断の緩いことが多くありました。自らの心にはどれほど思いを妨げるべきことではないのですが、
「今こそ……」と朱雀院が出家をされた時、この私に、後見人として女三宮をお譲りくださいました。そのお気持はしみじみ嬉しかったのですが、朱雀院に引き続いて、後を追うように私までも、貴女をお見捨て申し上げ、出家することにでもなれば、院ががっかりなさるであろう……と差し控えているのでございます。
出家するにあたり、気に掛かっていた人々も、今は、出家の妨げになるような人はもうおりません。女御(明石)も、将来は分かりませんが、あのように御子たちが数人いらっしゃいますので、私の存命中だけでも、お幸せにおいでになれる……」と安心しております。その他のことについては、誰もが運命に従って、私と一緒に出家するのも惜しくない年齢になっていますので、だんだんと気が楽になっております。
院の御寿命についてもそう長生きはなさるまい。大層ご病気も重くなられ、心細げにばかりお思いでしょうから、今更、貴女の思いがけない悪い評判をお耳に入れて、御心を乱しなさいますな。現世のことは気にかけることはありません。来世の成仏の妨げになるような事は、罪障がとても怖ろしいでしょうけれど……」などと、まともにその事(柏木との過ち)を言及なさらずに、しみじみと申し続けなさいました。
姫宮はただ涙ばかりを流して、われを忘れて、悲しみに沈んでいらっしゃいますので、院(源氏)もお泣きになり、
「他人事として、聞き苦しい事と思っていた年寄りの「お節介」というものを、今は自分もするようになりました。「嫌な年寄りだ……」と不愉快で厄介だと思うお気持ちが増すことでしょう……」と、気恥ずかしくお思いになりながら、御硯を引き寄せて墨をご自分で擦り、紙を取り寄せて、朱雀院への返事を書かせなさいましたが、姫宮は御手も震えてお書きになれません。
院は、
「あの衛門の督からの細々と書かれた手紙の返事なら、躊躇いなさらずにお書きになるのだろうか……」と想像なさいますと、一切の愛情も冷めてしまうほどに不愉快にお思いでしたけれど、一言ずつ言葉などを教えながら、返事を書かせ申しなさいました。
朱雀院の御賀を執り行うことのないまま、この月はこうして過ぎてしまいました。二宮(落葉宮)が、格別の御威勢のまま参賀なさいましたのに、この姫宮の窶れたお身体と競うようなことも遠慮される気持ちがしました。
「十一月は父院(桐壺)の忌月ですし、年の終わりは大層騒がしいことです。又、身籠もられて、ますます見苦しくなられる御姿も体裁が悪く、御賀をお待ちの朱雀院が、いかがご覧になるだろうかと気がかりです。そうかと言って、これ以上延期することもできなかろう……。貴女はそう思い乱れずに、明るく振る舞って、このひどく窶れておられますのを、まずお治しください……」等と、大層お労しく思い申し上げておられました。
衛門の督を、どのような折節にも、由緒ある催しには必ず格別に親しくお召しになって、ご相談をなさっていましたのに、全く絶えてしまうのは、皆が変に思うだろうかと気遣いなさいました。しかし例え会うにつけても、自分の失態がひどく恥ずかしく思われ、また会えば自分の心も平静ではいられないと思われますので、そのまま幾月も参上なさらないことにも、お咎めはありません。
一般の人は「やはり通常と違って、病み続けておられますし、六条院でもまた管弦の遊びなどがない年なので……」としていましたが、大将の君(夕霧)だけは、
「何か事情があるに違いない。風流者(柏木)が姫宮に一目惚れしたと気付いて、我慢できなかったのだろうか……」と推察されましたが、まさかこのように、はっきり隠すことが出来ない事態にまでなっているとは、想像もできなかったのでございました。
十二月になりました。朱雀院の御賀を十日過ぎと決めて、舞なども練習し、六条院も揺れんばかりに皆、大騒ぎをしていました。二条院の上(紫上)はまだこちらにお移りになっていませんが、この試楽のために落ち着いてもいられないとして、六条院にお戻りになりました。
女御の君(明石女御)もご出産のため里家(六条院)におられました。この度の御子は、又、男御子でございました。御子が次々ととても可愛らしくいらっしゃいますので、院は明け暮れ、遊び相手をなさいまして、長生きした御陰と嬉しくお思いでございました。
試楽には右大臣殿の北の方(玉鬘)もお渡りになりました。大将の君は丑寅の町で、まず内々に調楽のように毎日練習をなさいましたので、あの御方(花散里)は御前での試楽をご覧になりません。
衛門の督をこのような折に参加させないのは、見映えがしないし、物足りなく感じられます。中でも女房たちが、変だと思うに違いないので、参上なさるようにとお召しがありましたが、重病である旨を申し上げて参上なさいません。けれども特に苦しげな病でもない容態なので、
「遠慮でもしているのか……」とご心配なさり、特別にお手紙をお遣わしになりました。
父大臣も、
「どうして辞退申すのか。僻んでいるように、朱雀院もお聞きになるだろうから、大した病気でもないなら、何とか参上しなさい……」とお勧めなさっているところに、重ねて仰せがありましたので、「苦しい……」と思いながら、六条院に参上なさいました。
まだ上達部なども集まっておられない頃でした。院はいつものように、柏木を身近の御簾の内にお入れして、母屋の御簾は下ろしておられました。ひどく面痩せし青い顔をして、いつもの陽気で華やいだ振る舞いはなく、大層嗜みありげで落ち着いた態度は、また格別でございました。
いつもより一層、静かに控えていらっしゃるご様子は、
「どうして……内親王たちの側に婿として並んでも、見劣りはしないけれど、ただこの度の件については、どちらも分別のなかった事こそ、誠に罪許し難いこと……。」などと、目に留まりました。けれどもその怒りを抑えてさりげなく、大層優しそうに、
「特別の用事もなく、お逢いするのも久し振りになってしまいました。私もここ幾月は、紫上や姫宮などのご病人を看病しておりました。心の余裕もなかった間に、院の御賀のため、ここにおいでになる女三宮の御法事をして差し上げる予定になっていましたが、次々と御賀の支障が出て来まして、延期されてきました。
このように年も押し迫ったので、思い通りにもできずに、型通りに精進料理を差し上げる予定でおります。御賀といえば仰々しいようだけれど、私の家に生まれた子供達の数が多くなったので、朱雀院にご覧に入れようかと、舞など習わせ始めました。そのことで、拍子を整えることは貴方の他に、誰に頼めようかと思案していましたが、貴方が幾月もお出でにならなかった恨みも、今は捨てて、お呼びした次第です」と仰るご様子が、何の裏もないようではあるのですが、柏木にとっては、ますます身の置き所がなく、恥ずかしく思え、顔色も変わる気がして、すぐにはお返事も申し上げられません。
ようやく、
「長い年月、それぞれの方々のご病気をご看病なさっていると承り、案じておりましたが、春の頃より普段患っておりました脚気という病気がひどくなりまして、足をしっかり踏み立つことも出来ず、日が経つにつれて臥せっておりました。内裏などにも参上せずに、世間のことも痕跡が絶えたように家に籠もっておりましたが、朱雀院の御年がちょうど五十に足りる年になり、誰よりもきちんと格別な御賀をお祝い申し上げようと思っておりました。致仕の大臣(父)からも、
『冠を掛け、車を惜しまず捨てて(官職を退いて)しまった身ながら、進んで御賀をお祝い申し上げるにも身の置き所がありません。誠に低い身分ではありながら、私と同じく深い心は持っているだろう。その御心を、朱雀院にご覧に入れなさい……』と催促申されましたので、重い病を押して参上いたしました。
この頃は朱雀院には、ますますひっそりと心澄ましてお過ごしでおられますので、盛大な御賀の支度をお待ち申されていることもないだろう…と推察しておりまして、行事を簡略になさって、静かなお話し合いをお望みであることを、叶えて差し上げるのが良いと思われます」と申しなさいました。
「盛大であった女二宮の御賀のことを、そちらの方が立派だったとは言わない気遣いは、大したものだ……」と関心なさいました。
「ただ女三宮は、このように簡略にやりたいと思っておいでになりますので、世間の人は薄情と見ることでしょう。そうは言っても、朱雀院の思し召しをよくご存知なので、同じ考えでいらっしゃる……」と思うようになりました。
大将は内裏の仕事については、だんだんと一人前になったようだが、このように風流な方面は、もとから性に合わないのであろうか、頼りになりません。朱雀院は何事も深く嗜まれ、中でも音楽の方面のことは特に関心があり、大層ご立派に精進しておられるので、出家して世をお捨てになっても、心静かに音楽をお聞きになることについては、今この御賀にこそ、特に心遣いすべきでしょう。あの大将と一緒にお世話を頂いて、舞の子供達に心遣いや嗜み等を、よく教えてやってください。音楽の師匠などいうものは、ただ自分の専門については精通しているけれど、その他については全く残念なものなのです……」など優しくお頼みになりますのを、柏木は嬉しく思うものの、心苦しく気が引けますので、口数も少なく、ただ御前を早く立ち去りたいと思って、いつものように細々と親しげな話もせずに、やっとのことで退出なさいました。
東の御殿にて、大将がご用意なさった楽人や舞人の装束等を、柏木はさらに手直しをなさいました。出来る限り立派に仕度なさった上に、ますます細やかな心遣いを加わえなさいまして、誠にこの道の造詣の深い方のようでございました。
今日は試楽の日ではありますが、御夫人方が見物なさるので、見所あるものになるようにと、舞の童達は、御賀の日には赤い白橡に葡萄染の下襲を着る予定ですが、今日は青色に蘇芳襲を着て、更に楽人三十人が白襲を着ていました。辰巳の方(東南・紫上方)の釣殿に続いている廊を楽所にして、山の南の側から御前に出る所で、「仙遊霞」という楽を奏していますと、雪が微かに散り、春近い梅の花が綻びかけ、大層見映えが致しました。
廂の御簾の内に源氏の院がおられまして、式部卿宮と右大臣がお側に伺候しておいでになり、それより下の上達部は簀の子のところにおられました。正式ではない日なので、ご馳走などは手軽な程度に準備してありました。
右の大殿の四郎君、大将殿の三郎君、兵部卿の孫王の公達二人は「万歳楽」を、まだとても小さい年齢なので大層可愛らしく舞いました。四人とも誰彼となく高貴な家の御子なので、器量も可愛らしく装い立てられている姿は、大層気品がありました。また、大将の典侍がお生みにになった二郎君と、式部卿の宮の兵衛の督と言う人で、今では源中納言になっている方の御子は「皇じょう」を、右の大殿の三郎君は「陵王」を、大将殿の太郎は「落蹲」を、その他では「太平楽」「喜春楽」という幾つもの舞を、同じ一族の子息達や大人達が舞われました。
日が暮れてきたので御簾を上げさせなさって、興が高まるにつれて、お孫の君たちの器量やお姿をご覧になり、どの孫もとても愛らしい…とお思いになりました。舞の様子も又と見られないほどの妙技を尽くし、御師匠たちも各々、技の全てを教え申し上げたので、皆、優れた才能に加えて素晴らしく舞いなさったのでございました。
年老いた上達部たちは皆、感涙を落とされました。式部卿の宮も、御孫のことをお思いになって、御鼻が赤くなるほど涙を流されました。
主人の院(源氏)は、
「寄る年波に、酔い泣きこそ自分では止められないものだ……。衛門の督(柏木)が目を留めて微笑んでいるようだが、私にとっては誠に恥ずかしいこと。そうは言っても、若さはほんのしばらくの間のこと。逆さまに進まない歳月よ……、老いは逃れることの出来ないものなのだよ」と仰って、ちょっと柏木の方をご覧になりますと、誰よりも特に畏まって頭を下げておりましたが、大層気分が悪かったので、舞も目に留まらぬ様子でした。
院(源氏)はわざと酔った素振りをして、そう仰いましたが、冗談のようでありながら、大層胸が潰れる思いがしました。盃が回ってくるのも頭が痛く思われるので、形だけ盃を空ける真似をして誤魔化すのを、院が見咎めなさいまして、盃を手に持たせて、何度も無理強いなさいますので、断るのも躊躇われ、困っているご様子は、普通の人と違って、むしろ優雅にさえ見えました。気分が悪くて耐え難くなられ、まだ宴も終わらないのに、退出してしまわれましたが、そのまま大層苦しがって、
「いつもの様にひどく酔った訳でもないのに、どうしてこのように苦しいのか……。院(源氏)に対して気が咎めていたために、気がのぼせたのか……そんなに怖じ気づくほど心の弱い自分とは知らなかった。何と不甲斐ないことか……」と自ら思い知られました。
そのまま、大層ひどく病み伏してしまわれました。父大臣、母北の方はとても心配なさり、落葉邸に別々に住んでいるのでは心配であろうと考えて、父の殿にお移し申そうとしたので、女宮(落葉宮)の悲しむご様子は大層いたわしいことでした。
何事もなく過ごしていた頃には、心のどかに将来をそら頼みして、落葉宮へは格別に深い愛情をかけることもありませんでしたけれど、「今は命もこれ限り……」とお別れ申し上げる門出なのかと思うと、しみじみ悲しくなられ、自分が先立つことで、宮がお嘆きになるのは大層畏れ多く、とても辛いことだとお思いになりました。
母・御息所もひどくご心配なさいまして、
「世の通例として、親は別としても、夫婦の間柄については、どのような時にも離れなさらないのが常ですが、今、ひき別れて、ご病気が良くなるまで別々にお過ごしになるのでは、ご心配でならないことでしょうから、しばらくここで静養をなさいませ」と、お側に御几帳だけを間に置いて、ご看病なさいました。
「ごもっともなことでございます。私は数にも入らぬ身分で、及びもつかない結婚をお許しいただきました。『長生きをして、つまらぬ身分でも、もう少し人並みとなるところをご覧に入れたい』と思ってまいりましたが、大層重篤でこのようにまでなってしまいましたので、私の深い志をさえご覧頂けずに終わってしまうか…と思いますと、この世に生き永らえられない気がするにつけても、安心してあの世に行けそうもない……」等と、お互いにお泣きになって、すぐにもお移りになりません。再び母・北の方が気がかりにお思いになって、
「どうしてまず、親にお逢いになりたいと思わないのでしょう。私は気分が少しでも、いつもと違って心細い時には、大勢の子供たちの中でも、まず特に貴方に逢いたいと思い、頼もしく思っておりますのに、このように大層心細くなられ……」と恨み申し上げなさるのも、これもまた当然なことでございます。
「他の兄弟より、先に生まれたためでしょうか。親は特別に私を可愛がっていたので、今でもやはりいとおしく、しばらくの間も逢わないのは大層辛いとお思いになって、私がこのように最期かと思われる時とあらば、親に逢わないでいるのは罪深く、気が塞ぐことでしょう。『今は最期…』とお聞きになったら、大層忍んで父邸にお越しになって、私をご覧になってください。必ず再びお逢いしましょう。私はなぜか気遣いのない不束な性分ですから、宮が事にふれて、疎かな扱いであった…とお思いになることがあったのでは…と後悔されます。このような寿命とは知らずに、行末長く…と思っておりました」と言って泣きながら、遂に父邸にお渡りになりました。 落葉宮はそこにお残りになって、言いようもなく恋い焦がれなさいました。
大殿では、衛門の督のおいでを待ち受けなさいまして、万事に大騒ぎなさいました。そうは言え、直ちに深刻な病状になるというご様子でもなく、この幾月も食べ物などを全く召し上がりにならず、ちょっとした柑子などでさえ手を触れずに、ただ段々と霊界に引き込まれるように見えなさいます。
このような当時の有職な人がご病気でおられますので、世間は大層惜しみ残念がって、お見舞いに参上しない人はありませんでした。内裏からも朱雀院からも、お見舞いを度々差し上げて、大層惜しみ心配なさるにつけても、ますます親たちの御心は、痛むばかりでございました。
六条院(源氏)も「大変残念なことです……」とお嘆きになって、お見舞いを度々、心を込めて父大臣に申しなさいました。まして大将(夕霧)はとても仲が良いので、枕元近くにお見舞いなさっては、ひどくお嘆きになり、おろおろしておられました。
御賀は二十五日になりました。このように、時の高貴な上達部が重く患っておられ、親・兄弟、沢山の高貴な間柄の方々が、嘆き悲しんでおられる頃なので、何か興が冷めた感じもするのですが、次々と延期されてきた事情さえあり、中止することも出来ないので、どうして断念なされましょうか。女宮(女三宮)の御心の内こそ、お労しく思い申し上げなさいました。
例によって五十寺の御誦経、また院のおられる御寺でも、摩訶毘盧遮那の供養がありました。