権大納言(柏木)が儚く亡くなられた悲しさを、いつまでも残念に思われ、恋偲びなさる人々が多くおられました。六条院(源氏)におかれましても、特別の関係のない方でさえ、世間に人望のある方が亡くなることを大層惜しまれるご性格なので……まして柏木は朝夕にこちらに参上なさり、慣れ親しんで、他の人よりも目をかけておられましたので、「あの密事をどうしてくれよう……」と思い出すことはありながらも、悲しみは深く、折々につけて、思い出しておられたのでございました。
一周忌にも誦経などを、格別におさせになりました。何事も知らぬ顔の幼い御子の様子をご覧になり、やはり大層悲しくなられ、御心の内に、また追善の志を立て、黄金百両をお布施としてさせなさいました。父大臣(致仕大臣)は事情も知らずに、大層畏まって御礼を申し上げなさいました。
山の帝(朱雀院)は、二の宮(落葉宮)も、このように人に笑われるようになり、物思いに沈んでおいでになるし、入道の宮(女三宮)も、この世で普通の人らしい幸せから、離れてしまわれなさったので、どちらも物足りなくお思いになりましたが、「すべてこの世のことは、悩むまい……」と我慢をなさいました。勤行をなさる時にも、
「私と同じ道を、女三宮もお勤めになっているのだろう……」などと思いやりなさって、このように、出家された後は、ちょっとしたことにつけても、絶えずお手紙を差し上げなさいました。
お寺の近くの林で抜いてきた筍や、その近場の山で掘った山芋などが、山里の生活では風情あるものなので、女三宮に差し上げようとなさって、御文を愛情細やかにお書きになった端に、
「春の山は霞がかってはっきりしませんが、深い心を込めて掘り出させたものでございます。この世を別れ、お入りになった道は私より遅くとも、同じ極楽浄土を貴女も訪ねて下さい。修行は難しいことでございます」とありました。女三宮が涙ぐんでご覧になっているところに、大臣の君(源氏)がお渡りになりました。いつもと違って、御前近くに罍子(食べ物を盛る器)が幾つも置いてあるので、
「何だろう、おかしい……」とご覧になると、院からの御文なのでございました。お読みになりますと、とても胸の詰まる想いがするものでした。命が今日が明日かの心地がするのに、女三宮にお会いする事が叶わないのが辛いことです」などと、細やかにお書きでございました。
「この同じ極楽浄土へご一緒に……」という歌を、特に興味深いところもない僧侶の言葉遣いですけれど、
「誠にそのようにお思いなのだろう……。自分までが、女三宮を疎かにお世話している様にご覧になって、本当に後ろめたい思いが加わるのは、大層お労しいことだ……」とお思いになりました。
お返事は躊躇いがちにお書きになって、院からの使者には青鈍の綾・一襲をお与えになりました。書き変えなさいました紙が、御几帳の端から少し見えますのを、大臣が手にとってご覧になりますと、その筆跡は、とても頼りなげで、
憂き世には あらぬところのゆかしくて 背く山路に想いこそ入れ
(訳)このように辛い世ではないところに住みたいと思って、私も父院と同じ山路に入りたいのです。
「院がご心配なさっている様子なのに、貴女がこの世でないところを求めなさるとは、私にとっては誠に嫌な辛いことです」と申し上げなさいました。今では、女三宮はまともに顔を合わせようとなさらず、大層美しく愛らしい御額髪やお顔の美しさが、まるで幼児のように見えますので、とてもいじらしく拝見なさるにつけても「なぜ、このようになってしまったのか……」と、罪悪感をお感じになりました。御几帳だけを隔てても、大層隔たった感じで、嫌々ながらという様子ではない程度に、お世話を申し上げておられました。
若君(薫)は、乳母のもとで寝ておいでになりましたが、起きて這い出しなさって、大臣の袖をひいて、まとわりつく様子がとても可愛らしくいらっしゃいました。白い薄物に、唐の小紋の紅梅の着物の裾をとても長くだらしなく引きずっているので、御身体がすっかりあらわに見えて、後の方だけを着ているような様子は、幼児のいつものことだけれど、大層可愛らしく白くすらっとして、柳を削って作ったように見えました。
頭は露草で染めたような感じがして、口元が愛らしく、目元はおっとりと気が引けるほど美しいごこの容貌には、やはり亡き人(柏木)を思い出されますけれど、
「あの人は、大層このように際立った美しさはなかったが、どうしてこの若君は、このように可愛いのだろう。母宮にも似ておられないし、今から気品があって立派で、格別に見えるご様子は、私自身が御鏡に映った姿に、似てないこともない……」と、見極めておられました。若君は、少し這い初めなさいました。何も知らずに、この筍の罍子に寄ってきて、やたら落ち着きなく筍を取り散らかして、囓ったりなどなさいますので、
「あぁ、行儀が悪い。本当に困ったものだ。あれを片付けなさい。『食べ物にだけ、目が留まっている……』と口の悪い女房が言うといけない ……」とお笑いになりました。
抱き寄せなさって、
「この若君の目元は普通と違うな。小さい子供を多く見ていないからか、この位の年齢はただあどけないとばかり思っていたが、今から格別に優れているのがやっかいなことだ。明石女御の女宮がいらっしゃるところに、このような御子が生まれてきて、どちらのためにも辛いことが起こることになるのであろう。悲しいことに、この子たちが育っていく末まで、見届けることができようか。花の盛り巡り逢うのは、寿命あってのことだなぁ……」と、じっと若君を見つめなさいました。
「何と縁起でもないお言葉を……」と、女房たちが申し上げました。
若君は歯の生えたところで噛もうとして、筍をしっかりと握り持って、よだれを垂らして囓っていらっしゃるので「変わった好みだな……」と仰って、
うきふしも忘れずながら呉竹の 子は捨てがたきものにぞありける
(訳)嫌なことは忘れられないが、この子は、捨てがたく思われる……
筍を引き離して、若君に話しかけなさいますが、ただ笑って、何とも分からず、とても慌ただしく這い下りて、動き回っていらっしゃいました。
月日が経つにつれ、この若君は可愛らしく、不吉なまでに美しく成長なさいましたので、本当にあの嫌なことを、すべて忘れてしまいそうでございました。
「この若君がお生まれになるために、あの思いがけない事(柏木と女三宮との不義)が起こったのだろう。逃れがたい宿命だったのだ……」と、少しお考えを改めなさいました。自らの御宿世にも、やはり納得できないことが多くございました。
「ご婦人たちが多く集まっていらっしゃる中にも、この宮(女三宮)こそは不足に思おうところもなく、宮ご自身のご様子も物足りなく思うところもなくていらっしゃるはずだったのに、
「このように思いがけない尼姿で、お逢いすることになろうとは……」とお思いになるにつけても、柏木との過去の罪は許しがたく、なお誠に残念にお思いでした。
大将の君(夕霧)は、あの臨終の時に、柏木が残したひと言を密かに思い出しては、どういうことだったのか、大臣(源氏)にお聞き申したく、お顔色も伺いたいのですが、薄々思い当たることもありながら、口に出してお聞きするのも具合が悪く、
「どのような機会に、この詳しい事情を明らかにして、あの人(柏木)が思い沈んでいた様子をお話申し上げようか……」と、考え続けておられました。
秋の夕べのもの寂しい頃に、一条の宮(落葉宮)を思いやりなさって、大将の君がお渡りになりました。宮は寛いで、御琴などをお弾きになっているところだったのでしょう。奥へ琴を片付ける事も出来ずに、そのまま南の廂にお入れ申しなさいました。端の辺りにいた女房たちが、いざって奥に入る気配がはっきりして、衣擦れの音や、その辺りに香の匂いが薫り、奥ゆかしい感じがしました。いつものように御息所がお逢いになって、昔話など交わしなさいました。
夕霧は、ご自分の御殿では、明け暮れ、人が大勢出入りして騒がしく、幼い子供達が大勢寄って、騒がしくしていることに慣れておられますので、ここは大層静かで、物寂しい感じがいたしました。御庭など少し荒れた心地がしますけれど、上品に気高くお住いになって、前栽の花などが、虫の音が騒がしい野辺のように咲き乱れている夕映えの光景を、見渡しなさいました。
和琴を引き寄せなさると、それは律の調子に整えられていて、どても良く弾き馴れていた人の移り香が染みて、心惹かれる想いがしました。
「このようなところでは、慎みのない好き心のある人は、心を抑えることが出来ずに、見苦しい振る舞いに出て、あってはならない評判を立てるものだ……」などと思いながら、和琴を掻き鳴らしなさいました。
故君がいつも弾いておられた琴でした。趣きのある曲目をひとつだけ、少しお弾きになり、
「あぁ、誠にあの柏木は滅多にない音色でお弾きになったものだった。この御琴にも亡き人の名残が籠もっておりましょう。お聴かせ願いたいものだ……」と仰いますと、
御息所は、
「主人が亡くなり、琴の音が絶えてしまってからは、宮は昔の御童遊びの記憶さえ、思い出しなさらなくなってしまったようです。朱雀院の御前にて、女宮たちのそれぞれ得意の御琴などと試し申された時にも、
「このような方面は、しっかりしておられる……」と、院はご判断なさったようでしたが、今は、別人のようにぼんやりとなさって、物思いに沈んでお過ごしの様子ですので、和琴は、この世の悲しい思いをもたらす種というように、拝見しております」とお答え申しなさいました。夕霧は、
「誠に、当然のお気持でございます。せめて終わりがあれば・・・」と物思いに沈んで、琴を押しやりなさいましたので、
御息所は、
「あの琴を、やはりそういうことならば、音色の中に伝わる事もあろうかと、私が聞いて分かるように、弾いてください。気が晴れずに、物思いに沈んでいる耳だけでも、明るくなりましょう……」と、申しなさるので、
「ご夫婦に伝わる琴の音色は、特別でございましょう。それをこそ、伺いたいと申し上げているのです」と仰って、御簾の側近くに、和琴を押し寄せなさいましたが、すぐにも引き受けなさる事でもないので、強いてはお願いなさいません。
月が差し出して、雲もない空に、羽をうち交わして飛ぶ雁も列を離れないのを、羨ましくお聞きになっているのだろう。風は肌寒く、もの寂しさに誘われて、箏の琴を大層ほのかにお弾きになっているのも、深みのある音色なので、夕霧は大層心惹かれて、琵琶を取り寄せ、とても優しい音で『想夫恋』をお弾きになりました。
「お気持が分かったようなのは心苦しいのですが、この曲なら、貴女も何か仰って下さるかと……」と、しきりに御簾の中の宮に催促なさいましたけれども、ましてこれは躊躇われるお答えなので、宮はただ悲しいとばかり思い続けておいでになり、
言に出でていはぬも言うにまさるとは 人に恥じたる気色をぞみる (夕霧)
(訳)言葉にだして仰らないのも、言う以上に深いお気持ちなのだと、
慎み深いご様子から分かります
と申しなさると、宮はただ想夫恋の終わりのところを、少しだけお弾きになりました。
ふかき夜の あはればかりは聞きわけど 琴よりほかにえやは言ひける (落葉宮)
(訳)深い夜の情緒ばかりは存じておりますが、琴よりほかに、
伝えたいことはありません。
もっと聞いていたい程、素晴らしいのですが、そのおっとりした琴の音色によって、昔の人が心尽くして弾き伝えてきた同じ調べを、しみじみ心情並はずれた感じで、ほんの少しを弾いてお止めになりました。夕霧は恨めしいほどに思われましたが、
「物好きな心を様々な琴を弾いてご覧に入れてしまいました。秋の夜に遅くまでおりますのも、故人の咎めがあろうかと遠慮されますので、退出せねばなりません。また改めて、心尽くしてお伺いしたいと思いますが、この琴の調子を変えずにお待ち頂けませんか。思いがけない事が起こる世の中ですから、気がかりでございます……」などと、顕わにではなく心の内を仄めかして、退出なさいました。
「今宵の風流なお振る舞いを、故人もお許し申すはずでございます。ただ訳もない昔話にばかり、気を紛らせなさって、命が延びるほどにお聴かせ下さらなかったのが、名残り惜しうございます」と、贈り物に添えて、御息所は御笛を差し上げなさいました。
「この笛にこそ、誠に古い由緒があるように聞きましたのに、このような蓬生の茂る宿に埋もれているのは悲しく思えますので、御前駆の声と競うほどに吹かれる音色を、聞きたいと存じます」と申しなさいました。
夕霧は、
「この笛は私には似つかわしくない随身となりましょう」と仰って、その笛をご覧になりますと、それは故人が生前愛用していたもので、柏木が「まったくこの笛の音の限りを吹きこなすことはできません。適切な人に、これをなんとか伝えたいものだ……」と、口に出しておられたことを思い出しなさいました。更に悲しみが加わって、試みに吹き鳴らしなさいました。
盤渉調の途中まででお止になって、
「故人を偲んで、独り和琴を弾いたのは、下手でも罪許されましょうけれど、この笛は眩い程で、私には身分不相応でございます……」と退出なさいますので、
露しげき 葎の宿にいにしへの 秋にかはらぬ虫の声かな (御息所)
(訳)涙にくれています。この荒れた家に昔の秋と、変わらない笛の音を聞かせて頂きました。
と、御簾の内より、申しなさいました。
横笛の調べはことにかはらぬを 空しくなりし音こそ尽きせぬ
(訳)横笛の調べは昔と変わりませんが、亡くなられた人の音色は 心に尽きることなく聞こえます
立ち去り難く、躊躇いなさいますうちに、夜も更けてしまいました。
大将の君が殿にお帰りになりますと、御邸では格子などを下ろして、皆、お寝みになっていました。「落葉宮に心をかけて、この頃ご熱心でおられる……」と女房がお知らせ申し上げたので、このように夜更かしなさることも、雲居雁(妻)には腹立たしく、夕霧がお帰りになったのも聞きながら、寝たふりをしていらっしゃいました。
「いい人と私を一緒にはいるあの山の……」と、催馬楽を、とても美しい声で独り口ずさんで、
「 これはまたどうして、格子を固く閉めているのだ。なんとうっとうしいことよ。今宵の月を見ない家もあるのだなぁ……」と不満げに仰いました。
格子を上げさせなさいまして、御簾を巻き上げて、端近くに横になられました。
「このような素晴らしい月夜に、気楽に夢を見ている人があるものですか。少し端においでなさい。何とも物足りない……」など申しなさいますが、雲居雁は面白くない気がして、知らぬ顔をなさっていました。
若君たちは、あどけなく寝ぼけて、あちらこちらにいる様子で、女房たちも何人も混んで寝ていて、とてもにぎやかな感じがするので、先程の一条宮の有様と思い比べると、大層違った様子でした。
夕霧はあの笛を少し吹きながら、
「私が立ち去った後、どのような思いに耽っていらっしゃることだろう。御琴などはその調子を変えずに、弾いていらっしゃるのだろうか。確か御息所も和琴の名手でおられた……」などと、一条宮を思いやり、伏しておいでになりました。
「どうして故君は、ただ表向きの気配りは皇女としてお扱い申しながら、深い愛情をお持ちにならなかったのだろう……」と考えるにつけても、大層いぶかしく思わずにはいられません。
「器量に見劣りがするならば、とてもお気の毒なことだ。世間一般の話でもよく耳にすることは、必ずそんなものだ」などと思うにつけても、ご自分の夫婦仲の、相手を疑うこともなく、仲睦まじかった年月の程を数えると、しみじみ感慨深く思われ、雲居雁がこのようにとても我が強くなって、おごり慣れておいでになるのも、無理のないことだと納得なさいました。
夕霧が少し眠入りなさいました夢の中に、あの衛門の督(柏木)が現れました。生前のままの袿姿で、夕霧の傍らに座って、この笛を手に取って見ていました。厄介なことに、夢の中に亡き人がこの笛の音を訪ねて来たのか…と思っていますと、
笛竹に吹きよる風のことならば 末の世長き音に伝へなん
思ふかたことに侍りき (柏木の霊)
(訳)この笛の音に吹きよる風は、同じことなら、私の子孫に伝えてほしい。
私が伝えたいのは、夕霧とは違う人(薫)なのです。
と申しますので、詳しく訊ねようと思ったその時に、若君が寝ぼけて泣きなさる声に、夢は覚めてしまいました。若君は大層お泣きになり、乳を吐いたりなさるので、乳母も起き騒ぎ、雲居雁も御殿油(灯火)を近くに取り寄せなさって、髪を耳にはさんで、気忙しげに世話をし、若君を抱いて座りなさいました。
とても良く肥えてふっくらとした美しい胸を開けて、乳を含ませなさいました。とても可愛らしく、色白で美しく見えるのですが、もうお乳はでないので、心をこめてあやしていらっしゃいました。夕霧も側に寄り、「どうしたのだ……」などと仰いました。魔除けの撒米をして、米を散らかしてとり騒いでいるので、
夢の情緒も紛れてしまうに違いありませんでした。
雲居雁は、
「苦しそうに見えます。貴方がまるで若者のようにうろつきなさって、夜更けて月をご覧になろうと格子を上げられましたので、例の物の怪でも入ってきたのでしょう……」などと、とても若く美しい顔をして恨み言を仰るので、夕霧は少しお笑いになって、
「怪しい物の怪の案内とは……。私が格子を上げなければ、道がなくて本当に入ってくることが出来なかったでしょう。大勢の子供の母親になられるにつれて、思慮深く、道理の通ったことを仰るようになられました」と、雲居雁をちらっとご覧になるその眼差しが、大層恥ずかしくなるほどご立派なので、さすがにそれ以上は何も仰らずに、
「もうお止めになって下さい。見苦しい姿でおりますので……」と、明るい灯火を、さすがに恥ずかしがるご様子も、可愛らしく見えました。若君は本当に苦しがって、一晩中泣きむずがって明かしなさいました。
大将の君も、夢を思い出し、
「この笛は厄介な物だなあ。故人が執着していた笛が、私が所有者になるべきではなく、 通例として女へは伝承しないというのも、意味のないことだ。柏木はどう思っていたのだろう。この世で、物の数にも入らない些細な事も、臨終の際に一心に恨めしく思ったり、または愛らしいと思ったりしては、無用長夜の闇に迷うことになる。だからこそ『何事にも執着は持つまい』」と思い続けなさって、愛宕 で誦経をさせなさいました。
また、柏木が心をよせていた御寺にも、誦経をおさせになって、
「この笛を、わざわざ御息所が由緒ある遺品としてお譲り下さったのを、尊い供養になることとは言いながら、直ぐに寺に納めてしまうのも、あっけないものであろうか……」と思って、六条院に参上なさいました。
女御(明石)の所に、院(源氏)がおられる時でした。三宮(匂宮)には三歳になられ、親王の中でも可愛らしくいらっしゃいますので、こちら(紫方)で特別に引き取り、住まわせなさっていました。匂宮は走り出ておいでになり、
「大将、宮をお抱き申して、あちら(女御方)へ連れておいでなさい」と、自らに敬語をつけて、とても甘えて仰いますので、大将は笑って、
「おいでなさい。どうして御簾の前を行けましょう。大層軽々しい事でしょう……」と言って、宮をお抱き申してお座りになりますと、
「誰も見ていません。私が顔を隠しましょう。もっともっと……」と、お袖で大将の顔をお隠しになる様子がとても可愛らしいので、抱いてお連れ申しなさいました。
こちら(女御方)でも、二宮が若君とご一緒に遊んでいらっしゃるのを、可愛いと見ておいでになりました。夕霧は隅の間に、匂宮をお下ろし申しなさるのを、二宮が見つけなさいまして、
「私も大将に抱かれたい……」と仰るのを、三宮は、「私の大将だもの……」と言って、お放しになりません。
院(源氏)もこの様子をご覧になって、
「本当にお行儀が悪いお二人ですね。朝廷の身近な警護の人を、自分の随身にしようと争いなさるとは……。三宮こそ、とても意地悪でいらっしゃる。いつも兄君と争い申しなさいます」と諫め申し上げ、二人の仲裁をなさいました。大将も笑って、
「二宮はすっかり兄宮らしい心になられ、弟君に譲ってあげる御心が深くおありになるようです。二宮は、御年よりはおどろくほどご立派にお見えになります」 院もお笑いになって「どちらも、とても可愛らしい……」と思い申し上げておいでになりました。
「見苦しく、軽々しいお席だ。あちらへ」と仰って、紫方にお渡りになろうとすると、宮たちがまとわりついて離れなさいません。
「女三宮の若君(薫)は、宮たちと同列に扱うべきでない」と御心の内にお思いになりましたが、
「かえってそのお気持を、母宮が心に咎めて、ご心配なさるだろう……」と、これもご性分で、女三宮をお気の毒にお思いになりますので、本当に大切に思いお扱い申し上げなさいました。
大将は、
「この君(薫)をまだよく見ていない……」と、御簾の間から顔を差し出し、枝から枯れて落ちた花を取って、お見せして手招きなさいますと、薫君が走っていらっしゃいました。二藍の直衣だけを着て、大層色白でつやつやと光り、女御の御子たちよりもきめ細かに整って愛らしく、まるまると太って、美しくいらっしゃいました。もしや柏木の子かと何となくそう見るせいか、目つきなどは少しきつく、才能ある様子が勝っていて、目尻の切れが美しい様子をしていて、とても柏木によく似ていらっしゃいました。
口元が、特に華やかな様子で微笑んでいるところは、
「自分がふと、そう思ったからだろうか……。院(源氏)は、きっとお気づきあろう……」と、ますます院の御心中を知りたいと思われました。女御の宮たちは、親王と思うせいか気高く見えるものの、世間並みの可愛らしい子供とお見えになるのですが、この君は、とても高貴で格別に可愛らしいので、宮たちと見比べ申し上げながら、
「何と可哀相な……もしや柏木の子かという疑いが本当なら、父大臣があのように酷く気落ちされて、
「子と名乗り出てくる人さえないことよ。柏木の形見と思って世話をする御子でもせめて、この世に留めてくれ……」と泣き焦がれておられましたので、これをお聞かせ申し上げないのも、罪深いことではないか」などと思うけれど、
「いや、どうしてそのような事があるものか……」と、やはり納得がいかずに確認する方法もありません。薫は気立てまでが優しく、大人しく、大将に懐いて遊んでいらっしゃるので、とても可愛らしくお思いになりました。
院(源氏)がお渡りになりましたので、大将もご一緒に対へおいでになって、のんびりと物語など申し上げる内に、日が暮れかかってきました。
昨夜、あの一条の宮のところに参りました時の、落葉宮のご様子などをお話しなさいますと、院は微笑んで聞いておられました。悲しい昔のこと、関わりのある事などには、院も相づちを打ちなさって、
「あの想夫恋を弾いたお気持は、なるほど昔の例として、引き合いに出してもよいものであるが、
『女は、落葉宮のように、男が心を動かす程度の風流があっても、いい加減なことでは好意を表すべきではない』と思い知ることが多い。亡くなられた人(柏木)の御心を忘れずに、こうして末長い好意を宮に知らせたとならば、同じ事なら、清らかな気持で宮に関わって、間違いを起こさないのが、お互いのためにも奥ゆかしく、安心できることであろう」と仰せになりました。
「そのとおり、他人へのお説教だけはしっかりしたものだが、このような好色なことは、いかがなものか……」と拝見なさいました。
夕霧は、
「何の間違いなどありましょうか。やはり無常の世にこそ、愛情をかけはじめ、お世話するようになった方々に、長続きしない愛情で終わってしまうのこそ、かえって世間にありふれた疑いをも受けることになると思いましたので……。想夫恋は、落葉宮から弾き出しなさいましたなら、非難されるべき事でしょうけれど、事のついでに少しだけお弾きになったのは、あの時に相応しく、趣きがあるものでございました。何事も人や事柄にもよることでございましょう。年齢なども、だんだんと若々しい振る舞いが相応しい年頃ではおられませんし、私もまた冗談を言って、好色がましい態度を見せることに慣れておりませんので、落葉宮は未だ打ち解けなさいません。大体が優しく、感じの良いご様子でいらっしゃいました」などと申しなさいました。
これをよい機会として、源氏の少し近くに寄りなさいまして、あの柏木が出てきた夢の話を申し上げなさいますと、源氏はすぐにはお返事をなさらずに、ただお聞きになって、何か思い当たることなどがおありのようでした。
「その笛は、私が預かるべき理由があるものです。それは陽成院の御笛です。これを故式部卿の宮が大切になさっていましたが、あの衛門の督が子供の時から、とても他と異なる美しい笛の音を吹いたのに感心して、萩の宴を催された日に、贈り物に差し上げなさったものだ。御息所が深い由緒も知らずに、貴方に与えたのだろう……」などと仰って、
「末の世に伝えたい人とは、薫の他の誰と間違えようか。そう考えたのであろう……」と推察なさいまして、
「夕霧も思慮深い人なので、いつか真相を知ることもあるだろう……」とお思いになりました。
「臨終の時に、お見舞いに参りました時に、亡くなった後の事なども言い置いております中に、これこれしかじか、院(源氏)に深く恐縮している旨を、繰り返し申しておりましたので、どのようなことでしょうか。
今に至るまで、その理由が思い当たらないことで、気に掛かっているのでございますが……」と、はっきりしない様子でお尋ね申しなさいますので、
「やはり大将は、知っている……」とお思いになりましたが、どうして……その事柄を口に出すべきでないので、暫くは分からないふりをして、
「そのように人に恨まれるような事は、何時しただろうかと、自分自身でも思い出すことができない。さて、そのうちゆっくり、その夢の事はよく考えてから、お話し申し上げあげよう。夜には夢の話はしないものだと、女房が言い伝えているようだ」と仰って、きちんとしたお返事もないので、夕霧は申し上げたことについて、「どのようにお考えなのか……」ときまり悪く感じておられました。
( 終 )
源氏物語「横 笛」(第三十七帖)
平成二十二年秋 WAKOGENJI(文・絵)
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